・・・2002年になった・・・
早いもんで・・・亜希が生まれて 2年・・・・当たり前だが 2歳になった。
もう色々 お話もするし 人の名前も覚えるし・・・フツウの子供。そんな 感じだった。
亜希は 人一倍 よく動いて よく ぐずぐず言って 人なつっこい そんな子だった。
しかし あいかわらず  夜泣きは 強烈だった・・・















・・・4月 初めての保育所 ・・・

↑左: A市の 西武庫保育所 入園式 2歳児 ひよこ組。  右:大好きな日菜ちゃんと。

家の最寄の 公立保育所に入所する事になった。
ここは 日菜ちゃんもいるし ハル君という 療育園に通うお友達の 妹・軍団が集っていた。
それに 日菜ちゃんとは 療育園の託児室で ずっと一緒に育った。
保育所は入所式と言っても 何もない。先生はジャージを着ているし子供たちも普通。 
でもパパと園の前の看板の前で写真を写した。なんだか 入園っぽくて嬉しかった。

入所式で、もらった お花のレイ。今でも大切にしている・・・
慣れるのに そんなに時間はかからなかったと思う。顔見知りがいたからかな・・・・
迎えに行ったら泣いて駆け寄ってくる時はあったが・・・
保育所に行き出して1週間、すぐに風邪をもらった。結構 身心ともに緊張していたのだな・・・
5月には 遠足にも行った。

・・・6月 ・・・
今でもしっかり 覚えている事があるのだが・・・
亜希の、保育所の担任の先生3人は 割りと年配の先生で・・チョット 怖かった。
私は亜希の様子を伝えてもらうのに いつも 「おしっこ 失敗しました」とか
「ウンチをしても 黙っていました」とかばかり言われていたような気がして、
少し 心配だったんだが、個人懇談で、1人の先生と 話した時に、
「お兄ちゃんの事でも困ったこととか思っている事を言って下さい」と言われた。
「言ってもらったら少しでもわかる」と言うのだ。

私は「フン」と心の中で思っていた。こっちがどんなに 大変か。そういう兄を持つ妹や、母親の気持ちがわかると言うつもりか。
それやったら もっと 融通でも効かしてほしいもんや。そう思っていた。が、先生は続けた。

「私は子供を事故で亡くした、死んでしまったら 何をしてやろうと思っても ホンマに何もできない」と
涙を浮かべて 言われた。

そうやったんか・・・先生も子供に関する仕事で 辛いんか、幸せなんか・・・

ま、そんなこんなの保育所で、亜希も本当に毎日楽しそうだった。
たくさんのお友達の名前や、手遊び歌を 毎日 聞いた。

この年の6月。うちの夫は単身、東京に乗り込んでいた。
営業を切り開くのだそうだ。いったいぜんたい・・・

夫がいなくても 大丈夫なんか・・・ボイタの訓練は充分にできるんか・・・子供が急に病気になったらどうする・・・
また、あんな地震でも来たら・・・不安だらけだった。

この頃、サッカーのワールドカップをやっていた。

日本チームの活躍は 皆さんの記憶にも 新しい所だろうが・・・
普段はあまりサッカーを見ない私もにわかに観戦していたので 
亜希も「ヒデ」を覚えたり、特にガンバ大阪の 宮本くんを「イタイイタイ お兄さん」と 呼んで大ファンになっていた ★

なぜ 痛い痛いなのかというと、彼は鼻を怪我していて鼻のギブスみたいなのを  つけていたでしょう?
バットマンとか ゾロとか言われていたけど・・・初恋やわ〜♪

実家の母が、妹の住む アメリカ サンディエゴに2週間 行ったので 
私たちは実家で父と生活を共にした。なかなか おもしろい体験だった。
なんやかんやと・・・1ケ月ってすぐだった。





2002年 後半 ・・・

ちょっと ワープして・・・
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