普通学校の個別支援学級に行ったこと

普通学校の、特殊学級の 肢体不自由児学級に見学へ行った。そこに居たのは3年生の男の子だった。
以前、療育園のお母さんと一緒に見学に行ったのだけど、終わってからもう一度、見学したいと思った
のは 幸希と非常に似た、体のお子さんだったからだ。体の感じが大変、似ていて座り方も同じ。喜び
を表現して、正座のままピョンピョンと跳ねていて、後ろにひっくり返って驚いているのも同じ…(^_^;) 

これからこういう動きをするんだなぁと体のイメージをつかむ…という点でもとても参考にさせてもらった。

が、幸希と、その彼。1つ 明らかに違うのは、彼には「知的障害が伴っていない」という事であった。
彼は話せないが空で字を操ったり、トーキングエイドを使用して話していたし不自由を感じさせなかった。
字も書き、パソコンのマウスを器用に操って、逆に体の不自由さを十分カバーしているような感じがあった。
そう、憧れの障害児…ってこと。西宮市では、普通学校の肢体不自由児クラスに入学するという事は、かなり
難しい事のようだ。  母親達は 教育委員会と直談判せねばならず、みんな大変な思いをしている…。前の
市は、意外なことに、いたってあたりまえのように地域の小学校の個別支援級に入学していたので不思議だ。  

さて、今日は 夫も一緒に見学することにした。「肢体不自由児学級」とは言っても、生徒が1人、先生が1人。
マンツーマンでの 指導だが、幾つかの教科は、同じ学年のクラスと受けていると言う。例えば、理科とか、
社会とか 図工とか。そういうのを「交流」と呼ぶ。それに、音楽会・運動会・マラソン大会の行事は全部、
参加しているらしい。
先生と、今日の先輩、K君はとてもいい感じに 信頼関係が築けていると感じた。優しい先生は、K君の性格や、
体のクセ、もよく理解して指導しておられるように見えた。漢字も書けるし、筆算もできて、スゴイよ〜〜!

K君のクラスの後ろに 交流している 3年2組からの寄せ書きがあった。殆どが 「K君、大変だけど 頑張れ」 
が殆どのメッセージ… もう少し、楽しいっぽいともっと嬉しいかもね。だってこんなに頑張ってるんだもん。

ここはエレベーターはなく、K君は4階の授業に前もって、20分くらい早く教室を出て先生と、階段を訓練がてら、
歩いて登るそうだ。 エレベーターをつけ、バリアフリーにする工事、先生の人件費、そして 自治体の行政…
そこが難しいところだ。これが母親と市教委の争点で、予算は3月にならないと決まってこないの一点張りだから。

私の友人は 自分の子供のクラスに、障害児の子がいても、全然構わないと言う。「優しさを学べるから」と…。

「優しさか…」 と その寄せ書きを見ながらいろいろ考えた。そして私が小学校4年生の時のことを思い出した。

私が小学校4年生の時だった。この話は長い間、思い出すことなどなく、幸希を育てていて思い出した話しだ…。
同じクラスに Y木君という子がいた。装具をはめて歩き、明らかにひょこひょこと歩き大きなめがねをかけていた。
ある時、彼は ひきつけを起こした。給食の時だったから、先生がスプーンの柄を噛ませた。まもなく治まったけど…

装具をはいていたのは、足が 痙性だったのだろう。明らかに脳性まひの男の子だった。めがねは、未熟児だったせい? 
少し斜視もあったような気がする。ひきつけたのは 何かの発作だったのだろうな。脳性麻痺の典型だと今ならわかる。

彼と 休み時間、運動場の一番向こうで遊んでいて、チャイムが鳴って、教室に帰るまでかなり時間がかかってしまった。
私も彼のひょこひょこ歩きに付き合って、ゆっくり帰った。あと1人、そういう「友人思い」の子と一緒に3人で歩いていた。

教室に着いたら 大学新卒で、フォークソングを教えてくれて、熱血だった担任の「夕陽丘の総理大臣」みたいな先生は、
私達をこっぴどく叱った。3人は廊下に立たされてしまった。今まで廊下に立たされたことなどなく、私は不本意だった。

「せっかく Y木君と一緒に帰ってきてあげたのに…褒められると思っていたのに、叱られるとは・・・トホホ・・・」

Y木君は 「僕の為にごめんね」なんて 気の効いた事を言う子どもでもなく、黙って3人で廊下に立っていた。
先生はその後 私達に何を言ったか、私は覚えていない…きっとあんな熱血先生だから、思うところがあって、わざと厳しく
振舞ったのだろうけど 私は忘れてしまった。 でも ずっと忘れていた事実を 最近 何かにつけ思い出すのだった。

Y木君は、気がついたら転校していた。私は、「かわいそうな子だから優しくしてあげよう」と思っていたのは事実だ。
今頃、どこで どうしているのかな? もっと大きくなって、いじめられなかったかな。体の緊張はきつくなってない?

人生は過酷だ。今日、休み時間になっても 肢体不自由児学級には誰も遊びには来なかった。午前中は ずっと 先生と
2人だった。休み時間は、「太陽の時間」と名付けられ、外で遊ばなければならないらしい。でも 誰も 呼びにこなかった。
外に連れて行くだけでも誘いに来てくれたらいいのに… と思った…。外では 子供達の元気な声が響き渡っていた。現実。

CLICK奥池BBQ

CLICK...Diary

 幸希 INDEX ...... 幸希 TOP ..... HOME

Mama Top