就学面談  ついに 学校に向けて活動の時期となりました! 2004年11月10日 

平成16年 11月10日 水曜日 養護教育相談センターに行って来ました。就学へ一歩踏み出しました。 


↓ 掲示物を見る夫。 右:また新たな楽しみを発見 ウオーター・クーラー の息子。


横浜に引っ越してきて、すぐに 予約をとったが 半年後しか 予約がとれない…市内の障害児 皆を統括の養護教育相談センター。

約40名の職員が 働いているそうで 指導主事という先生が いわいるケースワーカー的で、幸希と学校の 橋渡し的な存在になる。 
そういう先生が 9名。あと 心理判定士、理学療法士の先生が
子どもたちの心身の判定・診断を行う。あとは事務とか色々な人がおられます。

さて、以前もお話したと思うが 横浜に転居することにした時、下見で既にここを訪れて偶然、ここの一番偉い人 <(_ _)> と直接お話させていただいた。

すごくヤリ手な感じの女性で・・・というか 肢体不自由児の為の分野を切り開いてきて、肢体の学校を作られた 当本人で 以前、ここの所長先生でおられた…
現在は 定年されて 「相談員」として 時々 おられるらしい・・・

見た目は ほら 映画の字幕とか ハリウッド俳優の通訳の 戸田 奈津子さんみたいな雰囲気の女性だった。

その先生が 「あなたに紹介したい学校があるわ!」とすぐに、その学校に電話を入れて下さって、

「○○校長先生? 養相の**ですけど。痙直性脳性麻痺の お手本のような元気な4歳の僕ちゃんとご家族が遠路関西からご相談に お越しなの。すぐに 見学させてあげて頂けるかしら?」

って段取りを取って下さったんだ。 そして、学校見学させていただいたんだ。

今日は その先生とは違って、改めて 幸希の担当・指導員の先生と先生とお会いした。

「♪ いやぁ〜〜 申し訳ない お待たせしてしまって♪」お年は50歳くらいだろうか…とても 声がよく、踊るように入ってこられた。笑

とってもダンディで、まるで俳優さんのような感じの指導員先生であった。和製 ロバート・デ・ニーロって感じだよ。
アクションが大きいのも俳優さんみたい。大阪で激務が続いて ねぼけまなこだった 夫も 背筋がシャキっとなっていた。

「わたし… 塗り絵持ってきたんだぁ」という亜希に  「あらぁ〜 素敵! じゃ あなたは ここに座って、塗ってて頂戴」スマイル

幸希のほうに向きなおし 「幸希さん。こんにちわ!」← すごい迫力なので、いつもは知らない人には目を伏せがちの幸希も 

「コンチワ」 

「今から あなたのお父さん お母さんとお話をします。その間 幸希さんは 小さい部屋で 心理の先生と お遊びをします。わかりますか?」

「ハイ」

「その後、大きなお部屋に行って PTの先生に 体を見ていただきます。それは お父さんもお母さんも行きますよ。いいですね?」

「ハイ」 

そこで デニーロ先生は 指を大きく幸希の前に出し、大きな声で「1番目! 小さな部屋に行きます。」

出した1の手を クルリと回して「2」とし、

「2番目! 大きなお部屋ですからね。では 今から お父さんとお母さんとは離れます いいですね???」

「ハイ」・・・・・って事で 幸希は 心理判定に行った・・・・

デニーロ先生は、私が記入してきた 幸希が生まれてからの 病育 発育 療育にささっと 目を通して、質疑応答。
それに対する 質問がとっても的を得ていて助かった。 サクサクと質問…

「PLVとは 言われていないんですか?」

「PL...って 何でしたっけ?」

「脳質周囲白質軟化症です」 早口言葉みたい…

「いやぁ〜 脳性麻痺としか…」    「ほぅ・・・珍しいですね・・・」

*幸希は 生まれてから 2歳前まで 障害の有無というか 障害名なんかも 告げられていなかったので…
脳性麻痺って事も 母子入園のどさくさ& ドタバタで 告げられたもんで・・・なんか あと付けの知識みたいなんで来てしまっている。

その間 亜希はごそごそしてて 「ねぇねぇ 先生 私 折り紙できるんだ〜」とか言っていた。

デニーロ先生は 「あらぁ〜 それは 折り紙がしたいって事ね。いいわよ 3枚あげましょう。はさみ? いいけど 手は切らないで。 手は 大切。 自分の責任で切って下さいね☆」

今風に言うとオネエ系って言うのかな? そして それとすごく 英語がいっぱいなんだ。やっぱり デニーロ様?!

「フム・・・では スプーンは きちんと ホールドするところを持って・・・ライスは最後まで 集められますか?」

「彼にとっての  コンフォタブルな 環境・・・つまり 快適な環境というのは・・・」

「立位台(プロム・ボード)で 立ってます」というと・・・「ワォ☆ (上がり口調)プロムボード、持ってるの? 家に?! へっぇ〜〜」と 大驚きだった・・・

「SLBもあるんでしょう〜 どんどん 使って下さいよ〜☆☆」との事だった・・・・ 
横浜では 基準外の立位台

その後 PTの部屋に移った。すでに幸希は 心理判定を終えて、先生に体の様子をみてもらっていた。
PTの先生も 50歳くらいの先生で、これまた ものごしは柔らかいが すごい観察眼であった。

「・・・なるほど・・・ボイタをなさっていたんですね・・・確かに 胸郭筋は 腹筋に比べて 大変発達していますヨ・・・」
その後も ついでに 色々質問をしてしまった♪ その後 ボールを投げたり 這い這いをしたり 階段を登るところを見たり…
同じく 「立位台在自宅」には やはり かなり驚いておられた・・・

PTの診察も終え  デニーロ先生と PTの先生と、心理の先生で 話しをするのに15分位 私達だけ PT室で待っていた。
その間 母子3人で トランポリンで遊んだり…笑 夫は ボール・プールに携帯を落として 焦って探していた。



その後、総括的な話として 夫と私とデニーロ先生が 再び 話した。

まず 心理の判定。K式ではなくて、田中ベネー式の、「最新のものです」と言われていた。
初めて会って これだけの事がわかったのかと少しびっくりする位 当たっていた・・・

安心できる材料もあったし 不安になる材料もあったけど・・・検査のその時々で 幸希が 
どういう行動に出たのか、非常に詳しく話して下さった。 へえ そんな反応したんだ…なんて思った。  

そういう結果からくる 精神年齢など 細かく教えてくれた。

やはり 知的面 肢体不自由の面共に 訓練の時間も充分にあり指針をしっかり示せる環境として 

「普通学校の肢体不自由児学級」よりも 学校の雰囲気もピッタリな K養護学校を お勧めます・・・と言われた。

横浜には養護学校は 何校かあって、 その養護学校は 昨年私達が 見学して、第1希望の学校だったのでありがたかった。
ただ養護学校だけれど、基本的に通学バスルートの周辺の学校に通う事になっているらしく、市内であれば、どこに行ってもいい・・・というわけではないらしい。

「では! バスのコースはご存知ですか? 」「いえ…」 先生は だっ!と地図を取りに走った。

最寄のだいたいのスクールバスポイントを知らせてもらう・・・よかった ルートも ちゃんとあった。

その後、・・・・そんなこんなで12月に就学指導委員会から 決定通知が来ると決定になるという事。地域の学校の 就学前健診は行かなくてよいとの事。
横浜市は地域との交流保育は 積極的に 勧めているので 進路が決まってから 交流のあり方を 互いに話あうとの事。
もし 校長その他 不快な言動があったら ただちに 養相センターに伝る事。、厳重に 注意・指導するとの事。

…そんな 話で 今回のケースワークは 終了した。  3時に始まって 終わったのは 5時半だった。帰りは 車まで お見送りをして頂いた。 
幸希も 結構リラックスして 自分の力は出していたと思う。でも デニーロ先生は、

「初めての所ですから ストレスはあるはずです。100%ではない。
でも逆に言えば、【どこに行っても、お母さんと離れても 今回と同じだけの力は出せる】 という事なんです。」
と言った。

今回の 相談を終えて 上部の取り組みが 末端まで 行き渡っていて 受け継がれていると感じた。
A市や N市でも 同じような 取り組みが あれば 本当にどれだけの 親が助かるだろうか・・・と思った。

これらの市では親が自分で教育委員会と掛け合わなくてはならない。もし養護学校を臨まない場合、最寄の学校へ
進学を認めて欲しいという活動から始めなければならない。  その決定がされるのは3月の半ば。なぜなら
市の予算編成などがおりなければ、ソフト ハード面が整わないから。整わなければ受け入れはしてもらえない。行き先探しが大変だ。

「幸希も もうすぐ学校に行くんだね…」と 感無量だった。 療育を始めた時は、養護学校になんか行きたくないと
思っていた。 別の世界だと思っていた。 でも、今はこうして、道が繋がっていきつつあることが本当に嬉しくて
ありがたい。 そして あんなにステキな学校にご縁がつながったことにも感謝する。 いい方にいい時に出会えたご縁で
つながった学校。 よかったね 幸希、本当によかったね。  そんな気持ちで すっかり 夜になった中を 帰宅した。



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