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  U.S.A. 1988  ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

★人名は 青です  ★地名は 赤です 難しいけど 熟読してネ〜 

で、 私の アメリカ行きの旅は 貧乏旅行だったので 安い シンガポール・エアラインだったと思う。でも スチュワーデスは 美しいし★
当時 伊丹の大阪国際空港から 成田へ飛び、ロス(アメリカではL.A. エル・エーと言う)   到着後、国内線で サンフランシスコへ行くルートだった。
一応 ロス〜サンフランシスコまでのチケットは買ってある。 乗り口に行って乗りゃ〜 しまいや♪
その頃の事情として 前年に 大韓航空機爆破事件(金 賢姫の一件)があったので、けっこう 取り締まりとか 厳しかった。
まぁ・・・今と比べたら、比ではないだろうけど・・・

成田から飛行機で隣の席だった おじさんが とても紳士な人で 旅慣れた人で 色々 教えてくれた。
カリフォルニア州 ロス・アンジェルスの空港に着いた私は 伊丹なんかと比べて 途方もなく 大きな飛行場で 
案の定 国内線の乗り継ぎに失敗した。
「ん〜・・・英語でどない いうたらええんかな〜・・・」とちょっと 困っていた時も、たまたま 通りかかった、例の隣の席だった 
おじさんが 手配してくれた・・・ 若い私は 「ありがとう〜★」で済ませてしまった・・・今さらながら 丁重に お礼を言いたい・・・

カリフォルニア州・サンフランシスコ で うちの 実家にホームスティしてた子・・・ Katyが 迎えに来てくれてて、そのまた 友達の  サンフランシスコに住む  Ross の家に泊まった。Ross は 私とは 初対面だったけど、彼も甲南大学に通っていたので 話は通じてて 歓迎してくれた。
「友達と 聞いていたが まさか 男とは・・・男の子の家に 泊まるのか・・・」と驚いた ★
が、何せ 日本では 皆 実家に住んでいるもんだから 男の子であろうと 女の子であろうと 一人暮らし(シェアも多かったが)
その上 ここは アメリカ・・・って事で 本当に ファッション雑誌の世界に見えた。

サンフランシスコ滞在の後 イリノイ州・シカゴ郊外 Katy の実家に泊まった。Katyのお父さんと お母さんと一緒の毎日。
Katy は 大学の近くの寮に 帰ったので なぜか 不思議な 3人での生活であった・・・でも イメージどおりの 芝生の奥に 
二階建ての家がある アメリカン・ハウスだった。

とても 優しいお父さん お母さんだったが、英会話は 大変!救いは ソウルオリンピックをしていた事。

「ケイコ! ジャパン・ゴールドメダル!ジムナステイック!」

「ジムナスティックってなんや?」 常に 身振り 手振り・・・ 森末慎二のことだったと思う・・・だいたい こんなんだった。
けど なんとか 会話しようと頑張っていた〜 わからんのに アメフトも付き合って 見てたし・・・(-_-メ)

だいたい この シカゴの郊外の家が拠点で色々 行った。毎週1〜2日 日本人学校の幼稚園に行って まぁ ここでも 事実上 手伝い化していた。
昔の話で 融通が効いて、学校の最寄の駅で スクールバスが私を拾ってくれた。最寄の駅までは 電車で3つ位だったような・・・

シカゴから バスで何時間か 忘れたが Katyが通う  ウィスコンシン州州立大学の近所の学生街に行った。
そこで  Katy
の友達の  Chrisって子のアパートにも 何週間か 泊めて貰った。
Chrisも甲南生で 日本で面識があった。日本にいる時、彼女は日本語もかなり上手で阪急電鉄がスポンサーの
「赤い シュート」とかいう 30分ドラマに 外国人 女優として出演していた。エキストラと違うで・・・
マディソンというその町は 学生街で、皆 何人かで 1件の家シェアして住んでいた。
毎晩 パーティをどこか ここかでやっていた。
マディソン郡の橋・・・とは違うと思うけど・・・? 見てないから わからない・・・

私が泊まった家には 甲南には来ていなかったけど 日本語を勉強してる子が 2人、彼女達は 関西外大に留学経験があって 計3人で 住んでいた。
私は リビングで 寝袋で毎晩寝ていた。皆は リビングや キッチン バス トイレは共同で使って 自分の個室で寝る。
皆、別々の物を それぞれ 自分で作って食べるので キッチンは 食事時は 大騒動だった。

皆が 家にいても 自分は 自分のぶんだけを 作って食べるんやなぁ・・・と 不思議だった。
うちの家では そんなん 「勝手だ」と言って 叱られてしまう・・・
でも 家族とは違うし・・・
ベジタリアンな子とか オーガニックしか食べない子とか 色々と それぞれだった・・・でも 10代で そういう 食事のところを
確立させているなんて 今思うとすごいな・・・コンビニも近くになかったし・・・
アメリカは食文化が 乏しいと言うけれど 私たちも 10代の頃から コンビニもないところで自分で 食べていけって事になったら
たちまち 困っているはず・・・
クッキー作りが得意な子がいて、イメージどおりの アメリカンクッキーやケーキを作ってくれた。そういうのは 皆で食べる。
ちょっと 話がそれましたが・・・

なんで Katyの家ではなくて 友達の家っていうと Katyは エイトボート ← 8人で縦長のボートに乗って タイムを競うボート競技。
をやっていて その合宿所 みたいな所で生活してたからそこには 泊まれなかった。
ウィスコンシン州ってのは アメリカの五湖の近所だったので ボート競技が 盛んだったのかな?
Katyが モーターボートで湖を乗せてくれたり 日本の大学生活では考えられなかった。

私の旅の 途中の 9月1日 アメリカは 大学の新学期が始まった。うちの大学は 7月一杯は 前期で 8・9月が 休みだった。
みんなが 学校に行き出して私は  暇だったので Chris の友人の Hannaの手伝いをしていた。
その 手伝いは 道端で 彼女と一緒にアンティークの手作り アクセサリーを売るとか、(たぶん 骨董との最初の出会い)
彼女の3歳の息子のベビーシッターとか。

次に行ったのは ニューヨーク州のバッファローへ  Molla って子〈同じく 甲南生)の家まで 夜行列車で行った。
ニューヨークと言っても いわいる 自由の女神とかの 「ニューヨーク市」ではなくて ニューヨーク州の 小さな 田舎町で、場所は 
カナダとの国境の町で、ナイアガラの滝に一番近い アメリカの町だった。
私は、Molla  とは 日本で何度もあった事があって、面識はあった。彼女と 彼女のお母さんの 家に泊まった。
よく わからなかったけど お父さんはいなくて Molla も お母さんとは別に住んでいた。お母さんとは 殆ど 話をしなかった。
Mollaのお母さんが 現地の小学校に 私の事を話して ちょうど その小学校の 何年生か忘れたけど
日本について勉強していた時だったので 私と Mollaが 行って 日本の話をした事を覚えている・・・
そんな 田舎の町では 日本ではまだ 着物を着ていると思っていたみたいだった。

さっき 古い写真を見たら、Mollaの お母さんと 離婚したお父さんとMollaと 一緒にレストランに行った写真があった・・・
一体 私は何を話したのだろう・・・ 全く 記憶にない・・・・

この旅は 後に 英語学校のカナダ人の先生に 聞くところによると 結構な 危険度の高い旅だったらしく、その先生には
よほど インパクトがあったらしく、その後 私はいつも 「ミス・バッファロー」と言われていた。
確かにこんな私でも、ちょっと 用心はしてて、夜行列車とは言え、爆睡という雰囲気ではなかった記憶があった。

私と顔と ノリが ソックリと言われる 綾戸智恵さんも (私ってそんなにコテコテか・・・?)
この旅で 襲われかけたと 最近 テレビで 聞いた・・・(バッファローではないかもしれなかったが、何せ 同じ  夜行列車だった)
たぶん 私が乗った時 たまたま 空いていた車両が 一等だったので少しは マシだったのかもしれないけど。

結局 私は 夏休みまるまる 2ヶ月位 アメリカを 横に 旅して 行ったり 来たり、語学学校なんかにも行かずに
毎日 無料の 美術館〈美術館は無料のところが多い)とか 観光とか ・・・ 動物園から 図書館から 野球なら 見ててわかるので
大リーグとか フリーマーケットとか  何でも・・・行って 暇をつぶして あつかましく 人の 友達を当てにして 
生活していた。

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