・・・・・・・ 刀@ 就職です  刀E・・・・・・  


時代は、働く事が当たり前の時代で・・・
その後の就職は そういう 私の ちょっと変わった所を見た とある 助教授が 関係の とある園を紹介してくれた。

まだ これからの 設立なんだけど、オーストラリアのシドニーにできる予定の 日本人幼稚園。1年 本園で働いてから 渡豪する事になった。1年しか 職務経験がないので 就労ビザの取得は1度は却下されたけど 敏腕弁護士のお陰で 渡豪できた。
(その時も うち母親は 「いい経験よ 行ってらっしゃ〜い★」であった)
日本人幼稚園の予定だったが、あちらの事情で 一応 インターナショナル幼稚園となった。(私としては どっちでもよかった)

当時 バブル景気 真っ最中で、日本人の駐在さんがとても多かったが 「せっかく外国に居るのだから」と
「現地の幼稚園で 英語でも 覚えてくれた方がいい」と 現地校に 通わせる親御さんが殆どで、あまり日本人はうちには来なかった。
が、子供も言葉が通じない事には 相当なストレスを 感じるらしく、現地幼稚園に 登園拒否みたいな日本人の お子さんが 増え始めた。
えらいもんやな〜
そういう お子さんは オージーの先生を見て 逃げ回ったりしていた。

クラスは3クラスで  オージー(オーストラリア人)と 日本人のペアで担任する。
最初は、子供は 3人とか 5人だった。先生の数が多いくらい。しかも 保育料が大変に高いので 週に2日だけ来る人 
3日だけ 来る人 5日フルで来る人 とカリキュラムは困難を極めた。

でも  園児さんは増えて行き、 そのうち 日本人とオージーが半々位の園になった。
オージーは、オージーで この景気のいい日本に憧れて、日本語や日本文化を学ばせたかったようだった。

日本人は 駐在さん(とても きらびやかなご夫婦が多かった)の他 オージーと結婚した 奥様方や、移民してきた方など。
オージーと呼ばれる人たちの中には 色々な人がいて イギリス系 チャイニーズ系 アラブ系 あとは 生粋で ギリシャ人とか
イラン人とか フランス人もいた。おりしも 湾岸戦争の時で 多国籍軍と言う言葉があったが その言葉がぴったりだった。 

一応 親御さんにつたない 英語で1日の話をして 深い話は 私たちが日本人の親御さんに、オージの先生は 英語チームの
親御さんに・・・と いう風に 役割分担していた。

参ったのは 両親とも中国人で 英語も日本語もわからない・・・その時は さすがに 漢字で筆談になった・・・通じた。
その親御さんに関しては、他の親御さんに 中国語のできる人がいたので 通訳してもらっていたが、お子さんに 話す時は
簡単な中国語の単語を 皆 一杯 覚えて 「トイレ」「靴」とか 中国語で言っていた。そういう子も 英語も日本語も わかるようになっていった。

困難を極めたことが 色々とあった。国ごとに常識が違うから・・・職員会議は 日本の2〜3倍の時間がかかった。

例えば・・・

★ 食器などの 洗い物のやり方はどうするか・・・ 
幼稚園とは言え 朝8時から 夕方6時まで 保育していて、保育所形式だったのだけど、給食の洗物は 給食の先生がするとして、
おやつの時間の食器は クラス担任が洗う事となっていた。
・・・が、オージーの先生は 洗剤のついた スポンジで 洗った食器を、そのまま 乾かすのである。ゆすがない。すすがない。
泡が食器に たくさん ついたままで かごに 伏せていく・・・・
ショックだろ〜? 「洗剤は体に悪いで!」と言うと 「私のおばあさんは 90歳で元気です」とか 言う!

★子供が 発熱の時・・・
日本では 熱の出始めは 温める。 豪州では 裸にさせて 冷やす・・・

★「おはよう♪」の歌を 皆で立って 歌わせるのは イヤ!
戦前の 日本の軍隊みたいだから いけないと言う。
まして 日本の運動会なんて・・・ アーミーだ アーミーだ!!! って事で運動会は 親子お遊戯とか レース! 順位はええのか・・・?

★給食も、ものすごい 困難を極めていた。・・・
というより 給食の先生の困難は相当なものだったろう・・・
だって 毎日 来る子供は違っていて その上「うちは アレルギーで 海老はダメです」「卵がダメです」とか、
アレルギーに 関しては 大変だけど まぁ、よく ある話かもしれない・・・

問題は 宗教上の理由 その他!
「うちは 宗教上の理由で 豚肉はだめです」(ミートソースは 合いびき肉なので 食べられません)
「うちは 本当に野菜だけの ベジーです」 「卵は いい ベジーです」 「羊だけ食べます」・・・おいおい・・・
待ってくれ〜 とても ややこしい・・・・
滅多になかったかが、「ごめんネ・・・今日、豚肉を抜くのを忘れたのよ!」と ユダヤ教の子が白いスパゲティになった事があった。
こういう 失敗は私が 知っているだけで 1回だけ。
とりあえず 担任は 配膳だけ 細心の注意で、給食の先生は 日本人の若い人ばかりだったけど ホントに 素晴らしい いい人ばかりだった♪

・・・こういうのは ほんの 一例で  何から何まであって、色々 やんやと 話あった・・・仕方ないから その担当に任せる事になった。
というか オージーには、オージー式で 日本には、日本式で、やればいいやん!って 事になって 
「そのかわり 宣言しておく。 私は 君たちが洗った コップは ゆすいでから 使う!!!気を悪くしないでくれ」って感じだった。
向こうは 「ケイコの 好きにしていいヨ。とにかく リンス(ゆすぐ事)はしないから。」だった。  
だから この人たちも 「相手に合わせる」とかじゃなくて、「人は人、でも 人のやり方も やりたいんだったら いいヨ」の精神だった。

幼稚園は チームワークがよくて どちらかというと 私たちのほうが 楽しい位で、評判がよくなり、また 母国語 英語 日本語と
3ヶ国語喋れる子も 何人も出てきて新聞社や テレビ局が しょっちゅう 取材に来るような幼稚園になった。
ある新聞には 一面 ぶち抜きで 「天才を育てる幼稚園」と 掲載された。

何よりも 日本人でも オージーでも 本当に子供は 可愛いかった。
私は 英語がそんなに できなかったけど 意思疎通は 結構できていた。
英語 日本語交じりで 私が、話して、オージーの子が 「ハイ ワカッタ・・・」と聞いている・・・そんな 光景が当たり前だった。 
ホントにここでも 色々な 人や 家族がいた。

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・・・Endless Road 6 「 外国の人は エイリアン」・・・・