新 し い 療 育 園 で の 幸 希 の 様 子  





※西宮市の療育園は2003年4月 年中児童として通園児となり2004年3月退園して巣立ちました。11ヶ月の短い在園でしたが 多くの事を学びました。


 

画像 左より: 立位台(プロムボード)に立つ練習は 初めての経験

OTでスプーンの持ち方を練習。 初めての歩行の練習! 感激しました



 新 し い 療 育 園 で 年 中 児 … 

1〜3月の間は外来児だったが4月、西宮市で通園児となった。ここの小児科医でもある園長先生はもう20年も園長先生をされているのだそうだ。

前と同じで、タクシーで通園すると、毎朝、診察があり、薬が必要な場合は放課後までに薬が薬局から届いていたり、予防接種も可能だった。
兄弟姉妹児と家族にも接種をしてもらえるので、障害児を抱えてフットワークの重い私達には、非常にありがたい制度で すごく助かった…。

つい、前の市と比較になってしまうが、前の園は園長先生が毎年入れ代わり、小児科とは全く関係のない人も多く(今、思えば天くだり的…?)
私が入園した時から診療や投薬や予防接種を園で…と市や事業団に嘆願はしていたが実現はされなかった。隣の市ではこうしてできているのに。

西宮市の「肢体不自由児父母の会」運営の『託児所』が 園に併設され西宮市に住む障害児本人とその兄弟が 本人は1時間100円、兄弟姉妹は、
150円で預かってもらえる。兄弟まで預けられるのは非常に珍しいと言える。2003年9月より支援費制度によって契約の料金体制になったと聞く。

とても ベテランの保母さん達が楽しく激しく遊んでくれて、母親がお弁当を作れなかったら 出前のピラフなんかを頼んでくれるような気軽さ。
真剣に遊んで下さるので、幸希はいつも大喜びしていて人とそうして関わりを楽しむのを見るのはとても珍しいことだった。だんだんとお茶目に…

私は子供を預けてショッピングにも行ったし、家で ゆっくりとする時間も持てるようになり、だんだんと、心身共に 余裕が生まれてきた…。


  障 害 児 の と ら え 方 

小児科医で、この療育園の20年来、園長を務めている先生は、実はボイタのセラピストでもあった。あえて、この園で取り入れない訳は…
やはり、あの姫路の宮田先生と同じような理由からだった。 「訓練第一の人生になるべからず」 母と子の信頼関係を心と心で…

心理の発達検査も園長先生が行ってくれた。「幸希の全体像」を、小児科医、セラピスト、園長先生、20年来の経験からの目線で、生活面も
トータル的に見て、療育に関する話ができた。以前は、幸希に対する療育が一本化されていないというか、パズルのピースのようにそれぞれ
各・療法士が見ていてお互いの情報が共有されていないことが多かった。心も体も頭も1人の体の中にある。共に成長していく。

今度の園は療育活動が活発だった。みんな障害のことを「告知」されて通園をしている人ばかりで強い! 私のように新入生が入ると、「親睦会」
がクラスごとに開催され、その日は、母子分離となり、母親達はランチ会。 土曜日には時々、父親だけの勉強会もあった。そのせいか、お父さん
の療育活動も活発で、父子通園している人も居たし、2人目のお子さんを出産後のお母さんの代わりに毎日 父子通園している人も初めて見た。

母たちは、勉強熱心で 明るい人が多く、非常に 個性的な人が多く感じられた。興味深かったのは、ネット普及率が非常に高かったということ。
この年に、同じクラスで過ごしたクラスメイトとは、私が1年しか在籍していないにも関わらず、以来6年、今でも6人中 5人と、メールはもちろん
お互いのblogを行き来したり、マイミクとして繋がっていて、情報交換はもちろん、お互いに励ましあって子育てをしているのは本当におもしろい。

みんな、熱心で日曜日に園に集まって話をしたり療育の後、みんなで色々な勉強をした。園長先生も「勉強会をするから療育の時間を1時間下さい」
と言うと 「療育の時間をけずるのではなく休みの日に集まる覚悟で取組みなさい! 」 と言う 真の優しさを持つ方。目からうろこの1年だった。

幸希が成長した時、一緒に涙ぐんで喜んでくれた。辛い事実の時は一緒に泣いてくれた。 とてもいい人たちに恵まれて過ごせたことに感謝している。



  


左:大水遊び大会の日。 滑り台とプールを組み合わせて、流れる滑り台 笑 もちろん ゆったりとビニールプールに入るお子さんも。

中:クッキングの日。 お部屋でカレーライス。包丁で切ったりもしたんですよ。お餅を丸めた日もありました。とてもいい経験でした。

右:サツマイモを植えましょう。苗床から作り、植えました。砂はキライでしたがお世話はよくやりました。水遣り、芋ほり…今、思えば
保育の先生が、普通の保育園で過ごすような遊びや環境を作って下さっていたのですね。子どもは遊びながら育つ…実感したし納得です!



 幸 希 の 変 化  

「立つ気がない」 と言われていた幸希。3・4月と外来でお世話になった男の先生に、引き続きPTでお世話になることに…
訓練は、園によってさまざまで、前の園では、週に何回か、子どもの状態とPTの先生の手が空いていれば何度でも受けられた。
こちらの園では、週に1回の個別のPTの訓練・・・・となった。他の4日は母子訓練となっている。  ちなみに横浜市では 通園の時間内に訓練
を受けるのではなく、通園は全て保育の時間となっている。訓練は放課後に受ける形となっている。     ボイタはもうキッパリと辞めて
ストレッチ、そして経験を増やすために立位台での立位、PCW(歩行器)で歩く練習も始めた。ボイタでは「無理に立たせる」のは厳禁だった
ので立ったことはなく、立つ姿を見たときは 心から感動した。  這うほうが早いとわかって、歩きたくない日もあるけれど、そんな日もある。

最近は、ぎゅ〜っとどこかを握って掴まり立ちをしている。まるで別人みたいになった…何があったんだろう? どうしちゃったの?ママは嬉しいよ!

作業療法・OTで、食事もスプーンを赤ちゃんのように握るのではなく 大人のように下から持つ練習を始めた。嫌がるかと思ったが意外に頑張っている。
給食の時間にPTやOTの先生が入ってくれて、まるで訓練のようになる時もあって、みるみる上達していった。当時、野菜は全く食べられなかった
のだけど、たくさんの先生方と、給食の先生がいつも周りに居て褒めてくれるものだから、ついに 野菜を食べる ようにまで成長…!
言語療法・STや、ボランティアの先生による放課後の音楽療法なんかもあって、歌を歌いつつ>手拍子したり、言葉にならないまでも大声を出して歌ったり
幸希は音楽が大好きだったんだ…!とわかった。そういえば小さい時、ラジカセをじっと見つめて音楽を聴いていた…まるで音符が見えるかのように…。

保育の担当の若い男の先生には「ダメな事は ダメ!!!」と毅然と接してもらった。男の先生なので、抱っこして長縄をしてもらったり、畳をつなげた
滑り台、本当にダイナミックに遊んでくれて楽しかった。担任の先生は 私にも幸希にも優く、たくさんの 愛をもらい 毎日 いっぱい褒めてもらった。

母子共に毎日いっぱい褒めてもらって、笑顔でいっぱいで「私も幸希もこれでいいんだよね」と思った。「これでいいんだ。これが幸希なんだね。」


    


↑ ダイナミックな遊びを日々ありがとう!なんと 肢体不自由児施設なのに運動会もあったのです。工夫がいっぱいで本当に楽しかった!  



 次 に 進 む 道を … 年 長 に 向 け て …

新しい療育園で、心機一転、心から生活も療育も充実していた。目の前にあるせせらぎで、夏の暑い日には水遊びをし、日曜日には上流に歩いて行って
お弁当を食べたり…子ども達のいとこが来れば 1日 川や公園で遊んでいた。 友人の家には2匹のワンちゃんが居て、子ども達は大喜びで触って遊び
「まるで アニマルセラピーだね」 と 笑っていた。  子どもを預けて周囲のお店で食べ歩きやウインドーショッピング。何もかもが楽しかった…。

でも、別れの時が近づいていた。西宮市の療育園の方針は  「なるべく早く 社会の中に出て頑張る」   というものだった。

だから、医療的なケアが必要なお子さん以外は、年中児の終わりに退園という形で、あと1年は保育園か幼稚園に通う形をとる…。じゃぁ、幸希は?

「これだけ、人の顔色を見て、色々ないたずらをする幸希くんだもの! どこに行っても大丈夫よ!
意思疎通だって身振り手振りでできてるじゃない! もう自信を持って、外に飛び出してみて!!」


本 当 ?!!  今までは、幼稚園や保育園には行けないんだな〜と諦めていたというか、行けるような子じゃないと思っていた。
以前、市役所で、「入所希望はご遠慮下さい」の、不安はあったけど…実は、我が家は、また次の年、引越しを控えていた… ⇒「将来」のページへ

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