◆ 太 陽 の 子(ひかりの子) 保 育 園  ◆


    


↑ かなり長い階段を自分であがったり 降りたりし始めました。
少し 画像が小さいですが 脱走中です。 必ず 叱られます。どんどん叱ってくださいね。


 ↑ 障害児だからって 甘やかされまくってました。叱られた事がありませんでした。

■ 保 育 所 入 所 の 拒 否 ■

怒り心頭 『保育園に入所はご遠慮下さい』やて? なんで 市役所からそんな事 言われないとあかんのか…。
幸希の病気の事以外で、初めて泣いた 泣いた。悔しかったぁ〜。その時 夫と一緒に 市役所に行ったのだが 
2人して 返す言葉がなかった。  取り付く島がないって こういう感じの事を 表現するのかもしれん…
こんな市、出て行ってやる。えいっ (ノ-_-)ノ・・・~~┻━┻  


とにかく地区での電話でのお伺いは 殆ど全滅だったし、保育所の入所となると必ず市の保育課を通さなあかん…


■ 太 陽 の 子 保 育 園 へ・・・■

この頃になると、考え方も消去法になって 私の中で最後の砦であったよく 名前をきく H保育園に電話してみる事にした。
障害児の統合保育をなさっている。ウチからは 結構遠いんだけど、この際 遠いとか近いとかは言ってられないし。

電話をして障害児であることを告げ、交流の希望を告げたみた…。園長先生は「おうちはどこ?」と 尋ねられた。
「えっと M町です。」 「あなた、M町って、ここはS町なのよ。」→ 市の端から 端っていう感じの距離だった。

「そう・・・ 体験保育に行きたくても どこも いい返事をくれなかったのね…。」とすぐに言われた。

「そぉ〜〜〜なんです!」 と言いたかった。とにかく 1度 いらっしゃいよ… という事で訪問した。

園長先生は女の優しい先生だった。今までも うちの療育園から たくさんの先輩が通っていたらしい。知ってる。
そんな話を聞いたので 私も尋ねてみたんだ…それに よくよく見ると 脳性麻痺らしい男の子が給食のお箸立てを
持ちながら 這っている。保育士の先生達もその子を見て、「ゆっくりで いいから持ってきてや〜♪」とか言いながら 
任せている。   二階のクラスではダウン症の女の子が 二階から物を 放ったといって叱られている。私が、かつて
見た中で「お客さん人生」だった障害児達に こんな場面があったろうか。いつも「触らぬ神に崇りなし」そんな感じだった。


■ 週 1 日 の 通 園  ■

とりあえず お母さんと一緒に、半日を1歳児クラスで過ごそうという事になった。そのうち 母子の分離も考えましょうと
言われた。毎週木曜日に通うことになった。療育園が月 火 水だったから 私には少しハードだったけど・・・頑張ろう。

  

↑ 何よりも この保育園が 大好きなのは 私だった。おもちゃらしいおもちゃはなくて、 「丸板」
「せんたくばさみ」とか 「棒」 とか 「布 」「箱」とか そんなのばかりなのよね… 全部 手作りですよ。 

  

↑ ごろごろ切った 野菜…  なぜかちゃんと 食べてます。食器も介護用ではなく皆と一緒だけど 両手で食べる。


給食は、無農薬の野菜を提携農家から仕入れた野菜や卵。卵は 農業高校の生徒が「ひな鶏」から育てた卵が配達されていた。

給食の材料は、皆、もとの形のまま 保育室の一室においてあって、触ったり、ちぎったりかじったりしていい事になっている。
子供が 「これは 大根やで」「蕪やで・・・」なんて言っている。調味料も 石鹸も塗り薬も み〜んな 自然のもので、
野菜や卵や 薬の 物品販売もあった。魚を、魚屋さんや、園児のおばあちゃん達が 保育園に来てが さばくのを見たりもする。
給食は小さな子も 瀬戸物の器で食べるていた。 当時 野菜の嫌いな幸希も ごろごろな切り方の野菜をちゃんと食べていた。

8月のは 学校が夏休みの 卒園児の小学生が リーダーとなって、各クラスにお手伝いに入り、小さい子の世話をしていた。

自然を感じる事を大切にしていて 色んな年齢の子がいて なんだか昔の日本に来たような気がした。障害児も数名通園している
ので 健常児の子供たちも自然に 接して 助けてあげている。保育士の先生も同じで とても自然に 皆と同じようにさせていた。
加配の先生は いなくて 在園の先生で回していたと思う…。 人数の問題よりも 先生方のハートやんな! そう感じていた…。

↑ 加配とは 「障害児担当の先生」の事。公立の園だと 市から予算が出て 障害児担当の職員が派遣される。

幸希は2つ年下の小さい子と混じって生活してたけど 逆に年齢に合わせたクラスだったらきっと、萎縮しちゃうかも…。そんな
配慮から 年下のクラスだったけど 全然かまわなかった。保育園の近くに 森永製菓の工場があり、いつも 甘いキャラメルの
匂いが漂っていて、来るだけでとても 幸せな気分になって もっと ここを 好きになった。毎週の活動が楽しかった…。


■ 初 め て マ マ と 離 れ る ■

5ヶ月位して、分離が始まった。1時間離れる事になった。こんなの 療育園でさえしたことないから 幸希は とても泣いていた。
次回から 朝、車で走ると 保育園の近くに差し掛かったら 泣いていた。「あらっ。わかっているのね… 偉いやん」と思った。

離れて やったぁ〜♪ 嬉しい〜♪ ルンルン☆彡 というわけではない。気になるので 車の中にずっといて、 保育園の外から
隠れて覗いていて まるでストーカー。泣き声を聞いて自分も涙が。。。ウルウル…「幸希…ママは見ているよ…」超 怪しい…。

先生が言うには それが「情緒」の整理を作っていくのだそうだ。ママがいなくなる→泣く→でも 時間になれば、ちゃんと 帰って
くる。ママとの信頼関係を強くして、「見通しをたてて」 「考える事」ができていく。離れるだけでも それだけの意味がある。
単に私が幸希と離れたいとか 自分の時間が欲しいとか ラクしたいとか そういう事とはちゃうのやわ。 ははは。(それも少し希望)


その後 給食前までの分離(2時間)給食後(2時間半)と 分離の時間は伸び、今は朝 9時半から3時半まで 頑張っている。
今も朝は泣くが・・・給食も1人で食べて 階段も1人で上がって降りてしているらしい。昼寝で寝ないで脱走して遊んでいる時も
あるそうだ・・・(やるなぁ〜) 後に聞いた話だが、昼寝の時間 先生が ご自分のカバンを 近くに置いて 席をはずしたら
さぁさぁ〜〜〜〜っと来て 携帯をピッピと かけていたという・・・「人の携帯探す 名人 幸希」とあだ名を付けてもらった。




…そういう風に 日常的に障害児がいるもんで、歴代の障害児の親達で 『虹 の 会 』という会を構成していて、毎月、1度
保育園に集まり、子育ての話をしたり もう20歳位のお子さんがいるお母さんが 近況を話ししたり、単にお茶会だったりとか
作業所の見学に行ったり、勉強会をしたり 遠足に行ったり、そんな活動があった。中学生以上は子供だけでも参加ができていた。

そんな活動も園長先生が企画して下さって 兄弟姉妹の託児まで お願いできていた。これぞ血の通ったというか 活動だった…。

統合保育とかインクルージョン、ノーマライゼーションとか 言うけど 25年前から ここでは、なされていたらしい。園長先生は
「そんな 難しい事は わからないけど、最初は困っているお母さんがいらっしゃったから お預かりしましょうって事で始まって」
って 事だった。本当は この保育園に入園できたらなぁ〜と思った。 園長先生も「幸ちゃんが 残りの1年でも来たらすごく たくましく
なるわ…」と言ってくれた…で も まだまだ 体だけではなく、色々な面で 幸希は訓練が必要だった。いや、私達、親にもまだ 
障害に関するいろいろな世界が 必要だった。 温かい環境に 漬かっているわけにはいかない…。だから 隣の市に引っ越して、
療育園に 行く事にした。 遠くなった今でも今も楽しく通っている。本当に感謝している・・・・。 ありがとう、先生方… <(_ _)>

※横浜市への引越しを 機に お別れとなりました。園長先生と 担任の先生が 本当に「成長した」といってくれました ※

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