通  園 ・  3 

  療 育 手 帳 の 取 得 


年明けに、『療育手帳』を取った。知的発達の遅れを証明する手帳…とかで審査機関は「県の子どもセンター」である。
療育園の2階部分にセンターの分園があったので 昼休みに ちょっと…と上に上ればよかったので気楽な感じだった…。

そこで「軽度の知的の遅れ」という指摘で『B2』という判定結果となり、未熟児だったからそのうち追いつくよな・・・」

私には そんな認識だった。「今後また伸びて変わっていく」という話もあったし、体の遅れ=知的面も遅れている…程度
身体機能が伸びれば知的面も伸びるんだろう…その程度にしか思っていなかった。相手もはっきりと何も言わなかったし。


  



  つ か ま り 立 ち を 始 め る!!  

2月。待望のつかまり立ちを始めた。嬉しくて泣けた。体重の殆どをひじで支え、足は親指と人差し指で立ちかかとは浮いている、
その上 内股というこの上ない不自然な格好だけど、この際、そんなことは気にしなくていいんだろう。 やった ついにやった!
このまま きっと どんどん上手になるよね! そして いつかはスタスタと 歩き始めるんだよね!  そんな風に思っていた。



生活発表会で うさぎの役をしました。今も家族で仲良くしている 「憧れの障害児桃ちゃん」と。
なぜ 憧れの障害児なのかというと…彼女は知的障害がないのです。なにごともとても頑張って取り組む…



  通 園 を 始 め て 1 年 ・ 年 少 児 

4月、療育園で進級した。3歳児になった。連休に発熱から熱性痙攣を起こし、救急車を呼んだ。初めての事でびっくりしてしまった…。

そんな時に限って、夫は京都で結婚式…。病院にすぐ行けるようにと 実家(病院の近くなので)に居たんだけど 実家には誰も居ない。
怖かった。救急車が来た時 3階から幸希を救急車に運び込み、亜希を3階の 部屋に置き忘れてしまっていた。走って取りに上った・・・・・。
その時点ではもう、 痙攣は収まっていたけど受診して痙攣止めの座薬を処方された。家の裏が総合病院でも診てもらえない怖さを知った。


再 び 大 手 前 整 肢 学 園 に 母 子 入 院 

6月から また例のボイタの病院に母子入園することにした。なんとなく この頃の私は燃えていなかったから、再度自分を追い込みに…?
のつもりで行ったのだがイマイチだった。前の先生も担当ではなく、今回の先生とはウマが合わなかった。友達が一緒でお遊び気分だった。

今回 亜希の面倒を見に夫の妹が 札幌から来てくれた。当然 私の母のサポートもあって私も訓練に、専念できればよかったのだけど…。

  じ っ と し て は い ら れ な い 

肢は肢で心配で…あまりに言葉が出ないので 聞きつけて『大阪大学付属病院 歯学部 顎治療部』に通院を始めた。天下の国立大病院…。

今 思えば すごい根性だと思う…。こんなに大きな病院は、殆どの患者さんは「他の医療機関」からの紹介による診察なのに、いきなり
電話して 予約を取ったりした。もしかして口に何か機能に問題があるのかもしれない…と思ったりした。が、どこにも異常はなかった…。

お弁当を持参して お弁当を食べる幸希の口の動きを見てもらったり・・・ ラッパやしゃぼん玉を吹く練習をしたり・・・訓練と言えるのか…
気休め?努力? いつかは実るだろう… 「良いと言われる事は何でもしないと!」「いいと言われるとこには何でも見てもらわないと。」
その他、近所の小児科の発達健診にも参加していた。こういのを【ドクター・ショッピング】って言うのだそうだ…病院は4つと足の病院。

当時、私の 腕の件で なんとも 不思議だけど 全く怪しくないカイロプラティックで東洋医学の整体に通っていた。
※ 「前骨間神経麻痺」という病気だった。神経麻痺? もうやめてよ!と思った。この先生の治療のお陰で、のちに
『 どの病院もさじを投げて、あとは 手術するしかないと言われた私の右腕 』が 5回の治療で治ったのであるが…

その先生にも 幸希を診てもらったりしていた。素晴らしい先生だけど1回幸希をご覧になって 幸希の治療は 無理だ
と言われた。「カイロプラティックでも『 触る事のできない場所 』から 来ているんですよ…」との事だった…。涙



 世 間 の 対 応 

保育所に、月に一度 保育体験に行っていた。最寄の公立保育所で、昼迄 母親も一緒に遊んで給食を頂いて帰る体験保育という制度があった。
療育園の中で、「健常児と関わったら刺激になるに違いない」 「○○くんなんて、保育体験に行き始めてお喋りするようになったのよ!」なんて
話まで出始めたので、私としては こりゃ 行かなきゃならぬ!! と 最寄の保育園に通い始めた。 制度としては、保育園の園庭を開放する
程度の催しで、遊び場提供的な意味しか持っていないものだった。保母の先生達は特に私たちに気をとめるでもなく、話しかけてもこなかった。

もちろん幸希のことについて何も尋ねて来なかったので、ちょっと評し抜けしてしまった。ところが1人の保母の先生が私にこんなことを言った。

  「子どもさんのこと、いつも そないして 抱っこしてはんの??? 」 薄笑  

この時の屈辱と悔しさ、悲しみは一生忘れることはない。こんな人が保母だなんて…けんかごしになってはダメだ。幸希の為にいい印象で… 。

「この子は、脳性麻痺で歩けないんです。ここに来て子ども達と触れ合ったら自分も歩きたい…ってと思うかと思って連れてきてるんです…」

「ふ〜ん…。 そうなん?? お子さん、脳性麻痺? それやったら… どっかに通ってはるん?」                      

「えぇ、市の福祉事業段の通園施設の○○園に、週に3日通園して訓練とか保育とか受けてますよ!」 

「ほな ○○ちゃんとこと一緒か。△△ちゃんとこも…確か そうやな…」  … ブツ ブツ ブツ …

○○ちゃんのお姉ちゃんは 重度の肢体不自由児で、一緒に通園しているよ。彼女の弟は既にこの保育園に入園しているの位知ってるよ。
お姉ちゃんとお母さんは ○○園に 毎日通園しているの位、私も知ってるよ。幸希より ずっと 上のクラスだけどね。だからなにさ??
だけど よくもまぁ、そんなこと ペラペラとお気軽に口にするなぁ。 「○○と一緒か。」好意的な言い方ではなく 嫌悪感を感じた。
負けない。こんな人には負けない。幸希の為に行ってるから。 残念ながら、翌年度、亜希はこの保育園に入園することになった。あんな
人が保母として働いているところになんか預けたくなかったけれど、選択の余地がなかった。我が家は、幸希の関係や引越しで4つの保育園 
を経験したのだけれど、この保育園が一番、雰囲気が冷たい所だったと、比べてみて思う。 選択の余地がないのは本当に悲しいことだ…。

近所のには キリスト教の幼稚園があり、これまた、月に1度歩いて 15分かけて お遊び会にも行っていた。キリスト教なら慈悲の心で、
何か協力してくれるかも…。助けてくれるかも…そんなことを考えて 幸希と亜希二人を ベビーカーに乗せて押して歩いて通っていた。

そんなイヤな保育所でも キリスト教の幼稚園も保育体験はいずれ終わるから その後もさまざまな保育園に交流や入所を申し込んでいたが、
どこも けんもほろろだった。とりあえず返事は 「市役所に言ってみて下さい。」 っていうことだった。 保育園は市の管轄だからだ。 

「保育所っていうのはね…親御さんが働いている家庭の為にあるんですよ。あなた働いてないでしょう?」

こんな子が居て、働いてるとか、どうとかって持ち出してくる話なのか…その上『話せない 歩けない 排泄が自分でできない子 』では 
預かれるところもないでしょうし、「とりあえず遠慮する様に」と言われた…。なんということ… だって赤ちゃんだって同じじゃないか…!

く、悔しい〜〜〜〜・・・・ 

確かに、子どもに刺激を与えたいから…と保育園に通いたいというのは、おかどちがいなのかもしれない。でもそれほどみんな孤立していた。
でも、この保育園で言われた言葉、そして市役所での出来事が幸希の母として、夫も、後々の人生のターニング・ポイントになったと思う…。

この市は、ちょっとした優遇制度から「日本一、障害者が住みやすい町だ」と言われていた。そんなバカな。もっと住み易い市があるはずだ。

あと1つだけ、試してみよう…! 市内の有名な『太陽(ひかり)の子保育園』に、お願いしに行った。


この年は父母の会の役員に選ばれて、頑張って仕事も勉強もしたり、対市交渉などにも夫婦で取り組んだのだけど…現場は一生懸命やってる。
でも、 上・上の上・そのまた 上が、わかっていなかった。だんだん流れに任せる様になってきた。「世直し天狗」なんてなれないしね…。

訓練のほうでは『幸希は「立ちたい」という気持を持っていない』というふうに指摘を受けた。えっ…?意欲がないってことですか?

確かに… でも、「立つ必要」が 幸希にはないし、幸希は立った経験もないのだから、その気になれないのは仕方がないと思うのは甘いですか… 

先生は私たちを 厳しい言葉で 励ましているのだろうか・・・・? 私は一生懸命やってるのに…。だが、ある日、 突如…幸希がソファーに
登り始めた。 どうだ!! やる時はやるんだ!!  これから どんどんと…??? と… その時も私はそう思っただろうか…???




 夏・・・色 々 な 所 で 自 然 と の 出 会 い  


 

 ↑ 西宮市 甲山でアウトドア遊び。ママも幼少の頃、よく遊びに来ました。小学校の遠足や、大学も近くでした。


夏…よくアウトドアに行くようになった。療育園に、『達人の一家』がいて、キャンプに連れて行ってもらって楽しさを教えてもらった。

『自然』って 不思議なもので 公園ではあんなに砂も草も嫌いで、保育室では 小麦粉でさえもイヤで指について泣いてばかりなのに 
せせらぎの中なら 砂があっても平気で、本当に嬉しそうに 水際で 生き生きと 遊んでいる・・・ そんな一面を発見して驚いた…。
その楽しそうな顔が見たくて 連れて行くうちに 自分も自然の中で癒されていることに気がついた。 一方で、せっかく計画しても
雨になったら 誰を恨むでもなく、受け入れるしかない。植物や虫を見ると 一生懸命に生きていて、生命ってすごいな〜と思った…。

9月・・・・沖縄へ社員&家族旅行に行った。思えば幸希の出生の時にに誓った 夫の「サラリーマンからの決別」から始まった起業だった。

お蔭様で社員旅行。なんと、旅行の日程は あの、911・同時多発テロ事件の 翌日… 厳戒態勢の飛行場と まして行き先は沖縄だった。
そして、超ビッグな台風も来ていて、なかなか前途多難の旅行だったけど、日々の毎日とは別世界で楽しくて 本当に思い出深い旅だった。

結構 秘境のリゾートでのんびり、ゆっくり…な旅行になるはずだった、この旅。ところが 大事なクライアントを抱えていた夫は…ホテルでは
インターネットが繋がらないので、毎日ネットのつながる市内に出て行って仕事をしていた! 私たちは 部屋で「お母さんといっしょ!」を見たり
ホテルのプールに行ったり…他の家族と遊んだり、毎日がとっても 楽しかった〜♪  泊まったホテル ⇒ カヌチャリゾート 


  

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