ち ょ っ と 立 ち 止 ま る 

 




出版 ぶどう社 2000円   宮田広善 著 

療育園の、先生からお借りした1冊の「本」があった。『 子育てを支える療育 』 という本であった。どういう経緯で
お借りすることになったか…?というと たぶん、この先生は STのベテランの先生で、園内で 私はしょっちゅう 先生の事を 
追いかけて「言葉が出ない」ということに関して色々と尋ねていた。先生は当時、現場から離れ、ケースワーカとして新しい仕事を
されていた。同じ 園内には居るけれど、今思えば 垣根の向こうの人… 幸希の担当を超えて、幸希1人に的確な指導をしていいと
いうような状況ではなかったと思う。で、ある意味、私の色々な 質問とか何かのヒントになればとこの本を渡してくれたのだと思う。
旅行の沖縄でこれまでになく時間ができて、色々なことを考えた。そして、またこの本を読んで色々と考えた…。生活、訓練、幸希…

夫は、この本に深い感銘を受けて『アポなし』で、この著者の宮田先生が所長をされている姫路の施設を訪ねる! と決めて訪問した。

この施設は姫路市にあってずいぶん大きな施設だった。「肢体不自由児」も「知的障害児」も 教室は同じ敷地内に療育施設があって、
他にも大人の施設もあった。作業所みたいなのもあって一貫して障害関係の療育や養育が受けられる施設…といったような雰囲気があった。
  
結局、「障害は治らないんだよ」「訓練よりももっと大切な事があるんだよ」 

たとえば、 ボイタ法は良かったと思う。でもボイタの訓練を1日に4回こなすことを中心に 生活のサイクルがあって、あまりに訓練中心の
母子関係に近くなってはいないか? と、「もろ」に書いてあった。1回でも訓練が抜けたら、すごく罪悪感があった私達… 確かに…!!

 もっと 自由に、普通に生活を楽しんでいいんだよ!  

偶然にも著者の宮田先生がおられてお話することができた。予約もせずに押しかけた私達にイヤな顔せずに施設を案内して下さり、私達の
お話も聞いて下さった。 この本をかしてくださった療育園の先生のことも、 以前に交流があったそうで、よくよくご存知だった…。 
若気の至り…で、今思うと恥ずかしいが…今迄、盲目的に頑張ってきた事は何だったんだろう?今までと違う「意識」が芽生えつつあった。
自分の中の価値観や信じて来た事に自信が持てなくなっていた・・・。どうしたらいいのだろう… 幸希はどうなのか…なぜ 話せないのか… 

いずれ歩けるのだろうか… そればかりで毎日 とても 苦しかった…。 「できる時期になればできる…」 「幸希しだい」ばかりで…。


 も う 1 つ の 厳 し い 現 実 

9月の終わり頃。『発達心理』の先生に真剣に聞いた…。「幸希は… どうなんでしょうか…!? どんな子なのでしょうか…。」
「本来なら こういう事は 親御さんには 絶対に言わないんですけど… keikeiさんが何度も聞くから言いましょうか。」と…

「 幸希くんは 学校に行ったら 障害児学級に行くタイプの子かな。」

なんだかごまかされてるような…。はっきり言って欲しい…障害児学級ってどういうことですか?歩けないから 障害児学級なのか??

「要するに 幸希くんは 知的面に遅れがあるっていう事・・・・・ 」 で 先生は 会話を 締めくくった。
それって 追いつくのか・・・? 発達が ゆっくりでも いつか 追いつくのか??未熟児だったから知的の発達が遅いってこと?

 『  永 遠 に 追 い つ か な い も の  』 という事を意味していたのだった。 。

また目の前が真っ暗になった…。苦しくて息を吸いに外に出たら、秋の空が、とてもまぶしく暑く思えるような日だった。

以前は 足が悪い事が とても 嫌だった。足の 装具をはいて 外を歩くのは、格好悪くてイヤだなぁ…と思っていた。
『幸希が 歩けないかも・・・・・』と思ったら、びっこ でも、装具でも、杖でもいいから とにかく 歩いて欲しくなった。
それも 不可能なのだ。では では  車椅子であっても 人並みに「勉強」やら 「生活」できたら 幸いかもしれん。
乙武くんのような人もいるではないか・・・・それも 難しいという。  その上、お喋りもできないというのか・・・??

目の前が 真っ暗だった。これ以上の悲しみを、経験した事がなかった。この悲しみを どのように表現したらいいか 
言葉が見つからなかった。悲しみ最上級だよ…。【希望】が、【祈り】のようになっていき、その祈りのランクが 1つ 
また1つ・・・・と、下がって行っている。どこまで 下がっていくのか…?? そんな感じの 幸希の人生。かわいそうに…

その上、「訓練を頑張っているのか」とか 「言葉を教えているのが足りない」とか 「カードで脳を活性化すれば?」
無神経な人間がいっぱい居た…。当時、ドーマン法という訓練で奇跡を起こした脳性麻痺の少年が居て…あれすれば…とか…
そんなことはいっぱい言うのに、誰も本当に私につきあってくれる人はいなかったし、私の気持ちを聞いてくれた人も居ない。

夫は「皆が 幸希の事を心配してくれて 有り難いな〜。」と言っていたので 私はまた 「どこまでもめでたいヤツだ」と
また、八つ当たりもして ありとあらゆる人を皆、恨んでいた。そんな 汚い心の自分も嫌だし、現実も全てがイヤだった…。


 12月 ・・3歳になってしまった・・・



とうとう 3歳になってしまった…。 幸希の3歳の誕生日は、私の中で大きな大きな区切りだったのだ。3歳で身体障害者手帳が
交付される。それまでに少しでも よくなっていたい。手帳なんて欲しくない。そう思って いろいろなことを頑張ってきたんだ。
身体障害者手帳が『交付される』という意味は 障害に「○種  ○級」と等級がついて、健常児にはならないということだ…。  

悲しいけれども、お誕生日は祝ってあげなくちゃ。ひとまず、あの大変だった日々を乗り越えた幸希を祝ってあげなくては…。
誕生会の準備をしていたら・・・雅子様の、内親王お誕生とかで世間は大喜びだった。きっと雅子さまは、幸せに満ちた出産だった
ろう。フン! 羨ましいよ。と雅子様にさえ やっかんでいた。その位、当時の私は 相当にすさんだり、うじうじしていた…。

 障害児手帳は、結局「脳性麻痺 脳原性 運動障害 1種1級」

幸希が入園した時、母親懇親会で、もう卒園するほど年上のお子さんの貫禄のあるお母さんが言った言葉がずっと頭に残っていた。

「療育園に入園した当初、ウチの子が身障手帳?もらう程 ウチの子は悪いのかしら?と思ってたらまぁ 1種 1級で 最上級よ!」

その言葉が怖くてずっと2年間、忘れらなかったけど… なぜ あの人はあんなに明るく笑って言えるのだろうか…強いからだろうか…
もう、身体障害者手帳ももらったし…阪神大震災の復興を祈る、神戸 ルミナリエの「ハートフルディ」… 一般に公開する前に、
三宮公園に 障害者だけに公開してくれる日がある。 入場には身体障害者手帳を見せて入るのかなぁ…なんて思いながら行った。

行って見れば、療育園の先輩とか、病院での友達だらけだった。世の中狭すぎる・・・というか、障害児の数ってこんなもんなのだろうか。

幸希、明かりは キレイに見えたかな??  幸希、毎日、楽しいかい? 生まれてきたけど、こうして生きて幸せだったのかい?? 

そんな モヤモヤの中で 年は 暮れて行き、また 新しい年になった。

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