悩 み が  止 ま ら な い 3 年 目   


  年 少 組 時 代 の こ と  

通園も、もう3年目になろうとして、一番、力がついて行くと言われる年少組…3年保育の年…>頑張ろうと思っていた新学期…。
幸希が、小さい時からお世話になっていた先生方が、殆どみんな異動となってしまい、職員、総入れ替えとなることになった。

私達に知らされたのは「明日から…」ということ。市の職員の構成上、しかたがないのだろうけど、手立てはなかったのか…  

新しく来る先生も、子どももお互いに慣れるには時間も労力も普通より時間が必要なのに…!通園をし始めた時からお世話になって
きたベテランの保育の先生2人、「子育てを支える療育」の本をかしてくださった、あの、STの大ベテランの先生までも居なくなる。

新しく来た先生方を否定するのは 気の毒だけどどんな環境でも 当然ノウハウのある人がいいに決まっている。しかも担任は新卒。
園の中でも 少しでもうまくやりくりできるように・・・と いつも 受付で事務をしていた先生も 保育の現場入りするほどだった。
1人でも 長い付き合いのある先生が居てくれたら、とりあえずは安心になる。それほど 園での保育の現場は 不安定な体制だった。

それにしても腹の立つのは 対市交渉で、私達役員会と「無理な人事はしない」と約束していた福祉事業団は、またも約束を破って 
とんでもない人事をしたということになる…と、いうか、 本人達は決して 「無理な人事だとは認識していない。」というのだ…
確かにうちの療育園の事情を考慮して人事配置するのも、無理な話というのはわかる。でも、通園している子どものことも考えてほしい。
もし、ご自分のお子さんの療育環境だったら、簡単に受け入れられないだろう。 役員をしていたので対処に追われて大変だった…。

幸希は、「甘えん坊すぎる」とか「立つ気持ちを持っていない子は伸びない」と言われ…。ただし 当時の 幸希の担当の PTの先生
は とても 頑張ってくれていた。 交換日記をして 色々な口に出せない事をノートに書いたり、いつも いつも考えてくれた。涙

「やる気がない」… この言葉は私を奮い立たせるために、言った言葉なのかどうかわからないけど、そういう気持ちになれずに、矛先は
幸希に向いてしまった。 「私はこんなに頑張っているのに どうしてこたえてくれないの?」「こんなんだから見放されるんだよ…!」 

同じ年で、もっと体の緊張が強い 女の子は「もし装具をはいたら、私も歩けると思うから、ママいつも私に履かせて!!」と言っていた。

仲良しの 女の子は 幸希よりも、もっと小さく600gで生まれたが、ちゃんと喋れて何事も うまくは、できないけど 必死で体を使って  
着替えも食事も椅子に座ることも、時間がかかっても懸命に頑張っていた。その姿は見ているだけでいじらしくて、みんなは涙を誘われた。

そんな子の、お母さんは 誇らしげにも見えたし 羨ましかった。憧れの障害児だった。どうして幸希はそういう気持ちにならないのか…

噂では 「○○先生は ××ちゃんを『絶対に歩かせてみせる』って 頑張っているらしいよ!!」と 聞いて疑心暗鬼になったりした…。

幸希だけである。ちっとも喋らないし、立とうとしないし… 何よりも人に興味を示さないというか、目線もあまり合わせないし…。溜息。
幸希は幸希で、いつも 私に甘えたかったのだろう。それはそうだろう。いつも一緒に通っている。訓練も、基本的に母子だし…だって、まだ
3歳。健常児だって3歳と言えば甘えるなんてあたりまえのはずなのに。今ならわかるけど、当時は必死過ぎて、そんなことは思えなかった。 
何もかも 全然うまくいかなかった。なんだか 先が見えなくて 標識もなく、いつまでも 暗闇を歩いている感じがしている日々だった…。

やっていることに手ごたえを感じられなかった。辛かったのだけど亜希の成長に日々喜びを感じていたので、亜希には心から救われていたと思う。


 ふ と 気 づ く …

「他の療育園って、どんな感じなんろう・・・?」と ふと 思った。療育園も、住民票のある市にしか通えないから当然、他のところは知らない
通えないし・・・・・これが、当たり前と、思い込んでしまっている部分がないかな? 大きな意味で言えば、他の市ってどうなのかなぁ?…と思った。
今の療育園の母たちは 「この市は 日本一 福祉が恵まれているからいいよね。」と言っている。日本一が、どんな判断基準だったかというと…

※身体障害者手帳の申請をする時に申請費用が必要なのだがこの市は無料である。日本中でこの市だけが申請料だか、なんだかが無料だったらしい。
※1年に4枚の 「美容 理容チケット」が 無料でもらえる。 市内の美容院、理容室へ行くと、この券で無料で障害児のヘアカットを行ってくれる

それが 「福祉に恵まれている」という話だった。確かに療育園の入っている建物も すごく大きな5階建てのビルで設備は申し分なかったし…
初夏… 夫は 仕事で単身で東京に 1ヶ月、滞在していた。母は、当時妹が住んでいたアメリカのサンディエゴに旅行に行った。私と子ども達は
実家で父と2週間過ごした。なんか皆フットワーク軽いなぁ… そう思いながら、1人でビールを飲みつつ考えた。そう言えば妹がよく言っていた

「お姉ちゃんにはちゃんとカウンセラーの人が着いてるの? 心の中を聞いてもらってる?アメリカでは、第一に親を助けることから始まるよ」

心の中…とは言え… ケースワーカー とか コーディネーターっていう人は居ることは居るけど…悩みなんて打ち明けてもいいのかどうか…


そ れ で も 生 き て い く

そんな折・・・・、幸希と同じクラスのお友達が 突然 亡くなった・・・・・私はその母子にいつもすごく憧れていた。優しく素敵なお母さんは 
なんと私の大学の後輩で、やっていた仕事も同じ。その上、ご主人は 私の高校時のクラブの後輩という偶然がいっぱいのご夫婦だった。 

さらにお互いに、妹がアメリカにいて 妙に共通点も親近感があった。家も同じ方向なので通園のタクシーもよく一緒に乗り合わせて登下校した。 。
息子くんは、元気で可愛い子だったのになんてことだろう。声ではお話はできなくても、身振り、手振り、豊かな表情でいつも何かを語りかけてくれて愛嬌が
あり…明日のことって本当にわからない。お葬式に行って本当に本当に心から悲しかった。いったいこの世はどうなっているのだろう。

医療の発達で、命を助けて頂いて、心から感謝した。ありがたかった。でも障害が残るなんて想像もしなかった。私の勉強不足だったのか…。
障害があるとわかったけど、どう向かっていけばいいのかわからない。 でも、亡くなる…ということがこんなにも悲しいことだなんて…
どんなことがあっても生きていることが現実…。 幸希、あの時、頑張って生きてくれてありがとう。 そしてこれからも生きていこう…

当時、リクルートという会社から東京都のとある学校の校長先生になった(初めての民間人・出身)藤原和博さんという人がさかんにテレビに出ていた。

彼の言葉が心に残った。  「自ら機会を作り、自らを変化させる」

ずっと立ち止まっているのなら歩き出したほうがいい。この人の言葉に勇気をもらったというか、勝手に解釈したのかもしれないけれど歩き出すことにした。

NEXT ... 幸希 TOP ..... HOME