幸 希 が 生 ま れ て か ら の 事 ・12月 1ヶ月の間に…


      手 術 が 終 わ っ て 


手術が終わって、夫も簡易ベッドを借りて4人部屋に泊まりこんでいたいた。それは異例の措置だったらしい…。  私が大変なショックを
受けているだろうから特別…という病院側の配慮だったそうだがその意味をわかっていなかった。 早産の意味もわかっていなかったのに…

未熟児といっても、普通の丸々した赤ちゃんの半分位の大きさってことなのだろう…!位にしか思っていなかった…リスクなんて知らずにいた。
「赤ちゃんはどうしてますか?」と、聞いてもみんな「ウン、元気よ〜」としか言わなくて、なにか、ちょっと違和感があったのは事実だった。

夫が「(*´∀`) 名前、考えたよ〜」と「幸希 こうき」と書いた手帳を少し照れくさそうに見せてくれた。「ふ〜ん…」そんな感じだった。
だって、名前なんかは2週間位かけて考えてもいいんでしょ・・・? 1人で決めちゃったのか。私に 相談もなく…みたいに思ってしまった。笑 

実は夫と私の母は、出生届を急いで出して、来たるべき治療に向けての「福祉医療」や「養育医療」などの為に提出するものがたくさんあって 
そのために、まず第1段階として早急に出生届を出す為に、まず名前をつける必要があったらしい…。私は、そんなこととは何も知らずに居て…

「今晩がヤマです」「最善を尽くしたけど…」と言われた幸希は、その夜を頑張り、生きた。もちろん、命をつなげるためには色々な処置が行われ
さらに翌日には、重篤な呼吸障害(人工呼吸器を付けていた)・重度の貧血と低血圧のため、同意書なしで輸血した… と 後になってから聞いた。

      幸 希 と の 初 め て の 対 面 

   

たぶん、手術から2日後だったかな?というのは、帝王切開も結構大きな手術だそうで、色々と管が入ってて、それがと〜っても不快だったので
「もう管を 抜いてほしい…」と言ったら 「最低、明日まで頑張ってね」と言われた記憶がある…。このあたりの記憶があいまいなのだけど、
「赤ちゃんに会いに行こうか」と車椅子に乗って、未熟児室に向かった。その前に特になんの説明もなかった… 突然の息子との対面だった…。
きっと未熟児を生んだ多くのそういう母親がそうであろう、保育器の中の幸希…肉の塊に見えた…、涙がはらはらと流れてくるばかりだった…。
なんてかわいそうな赤ちゃんなのだろう…。こんなことってあるのか…自分も、幸希も 惨めに思えた。親子共に、『失敗作』って感じだった…。

確か生後3日目位だろうか。私の母が個室を願い出てくれて移ることになった。その時は、幸希もひとやまを超えて、やれやれ・・・・という感じで
少し、和やかな空気になっていた。そしてまたタイミングよく、母親と父親と病室でくつろいで、話しをしていたら小児科の部長先生で、幸希に
つきっきりで診てくれている先生が来られた。幸希が生まれてから先生に会う時は、シビアな話しばかりされてきて、先生が部屋にやって来ると
「会いたくない」なんて背を向けたりしてなんとも子どもみたいな対応をしていたのだけれど先生も時々は明るい笑顔を見せてくれていたのだが。

「高ビリルビン症で『黄疸』がひどいのです。 放っておいたら 『核黄疸』に進行して 脳性麻痺 になることは間違いような状態です。」

これが 「脳性麻痺」という言葉との出会いだろう…。なんて恐ろしそうな言葉!! 聞いた事があるようなないような…先生の
雰囲気からしても、これはただごとではないという雰囲気が漂っていた。なんてこと…なぜ、一難去って、また一難なんだろう…どうして?

どうしたらいいんですか?!このままみすみす、悪くなるのを見ているしかないんですか? それには、「交換輸血」といって血液を全部入れ替えれば
悪くなるのを避けられるかもしれない…と言う。血を入れ替えるだななんて・・・・どういう事ですか?そんなことはできるんですか?いったい何cc?
その血は採血されたばかりの血、48時間以内の血でなければならなくて、あまり細かい検査を色々と行う時間もない程に、新しい血が必要だった。
じゃあ、私の血液を使ってもらったらいいです。手術前に検査もしているから…。でも、輸血には親族の血はダメだった。血縁??が、近すぎると
ショック状態を起こすことがあるんだそうだ…。みんな黙ってしまって、重〜い雰囲気の中、私の父が、なんとかしなきゃと思ったのか、言った。

「素人のワシらが言ったってしゃあないやんか…先生が言うことやから、間違いはないはず…。ワシらがなんぼ考えたって及ばないことやし…。」
またまた輸血の同意書にサインをして、捺印もして、先生は急いで未熟児室へ走って行った… なんでこうなるんだろう…なんでこんなことに…

両親と、私、言葉もなく沈んでいた。どの位の時間が経ったのかわからない。そして弟と妹が 明るいシャバの空気の雰囲気で面会に来てくれた。
3人兄弟の私達、1人に何かがあると後の2人で、1人の為に色々と考えてあげられる、そういう意味で、兄弟姉妹3人ってすごくいい数字だと思う。
今回も屈託なくたぶん2人でそう示し合わせたのだろう、明るい雰囲気で、演技だったかもしれないけれどわいわいと言いながら部屋に入ってきた。

「オッス!元気?今なぁ〜、オレ、この病院の前で、もうちょっとのところで車に轢かれるところやったんやで! 全く、もぅ…! 怖いなぁ!」

(゜o゜)「お見舞いに来てて、こっちまで車に轢かれて入院でもしたら えらいこっちゃ…!並んで入院、婦人科やから無理って話やけどね!笑」

「それも、日赤の血液輸送車、「血液運搬中」とか書いてる車で、結構すごいスピードで走って… 病院やのに、この病院、血、足らへんのか。」」

なんて、おどけてくれたけど…その、急いでる原因はうちの息子の為のはず…幸希の血、そんなにも、急ぐほど悪いってことなのか…と立ち直れない。

....... 1998年 12月3日 輸血の同意書の詳細記述によると..... 

必要性: 黄疸 特に『 フリー・ビリルビン 』の数値高の為、 核黄疸 への 進展予防の為。
副作用: 血小板減少による出血。特に、脳内出血 循環動態変動に伴う 壊死性腸炎の危険性
 


  本 当 に 嫌 だ っ た 入 院 生 活 

病院は厳し過ぎるほど母乳育児の病院だった。幸希はまだ、とても口から飲めるような状態ではないから 毎回3時間ごとに搾乳して持参。
口はおろか、おっぱいと言ったって、生きるか死ぬかなのに…。授乳室は、元気な赤ちゃんを産んだお母さんが当たり前で幸せそうだった。


授乳室ではみんな自分の赤ちゃんを新生児室の窓からもらって、体重を計ってお乳をあげている。羨ましかったしなんだか惨めだったなぁ…。
今 思えば 「行きたくない〜〜」とか「搾るだけなら 部屋で搾ってもいいでしょ?」って言えばよかったんだろうに…と思うのだけど…。
私もなぜか 必死で我慢していた。…というか「ちゃんとしなくちゃ…」と 自分の感情はどこかにおいて 身体的にも、精神的にも辛いのは
幸希の為と なぜか頑張っていた。母がいつも お餅の入ったお汁や、鍋焼きを持ってきてくれて、お乳が絶えることはなかったことが、幸い
さらに私を苦しめなかったと思う。これで 母乳も出なかったらとしたらもっと色々辛かったと思うんだ… 母、ありがとう 感謝してます。

普通に出産した人は2日もすると、赤ちゃんが新生児室から普通の部屋にやってくる。母子同室と言って みんな赤ちゃんと一緒に過ごしている
4人部屋はいつもにぎやかで幸せそうでおじいちゃん・おばあちゃんが来て、みんな大喜び…命名を筆で書いた紙を病室に貼ったりしていて…。
私だってそんな風にしたかった。赤ちゃんの匂いで幸せで、うちの赤ちゃんは消毒液やアルコール綿のの匂いしかしないんだよ!悲しいよ…!!

いつもカーテンを閉めてじっとしていた。大切な幸希が入院してるのに何を言ってるの?!とも言われたけど、嫌も嫌! 何もかも嫌だ!!

入院は 嫌な事ばかりだった。でも毎日、看護婦さんが育児日記で励ましてくれて、交換日記をした。今日の状態、体重。見るのが楽しみだった。


   

      良 く な ら な い 幸 希 

200ccの 交換輸血を終えた幸希は、あいかわらず 悪かったようだ。輸血が終わったからと言って、ピンピンしてるという事はなかろう。

細かい事とか専門的なことはわからないけど・・・・母乳を飲むと言っても 口から飲めるわけでもなく、鼻から胃にチューブが通っていて、
そのチューブから胃に入れるのだが それも、たったの 「2cc」とかだ。黄疸の「光線治療」ばかりしていて胃の消化とか呼吸の状態が、
悪いとかで、いつもうつぶせにして寝かされていた。夜、見に行っても、治療の鮮やかな緑色が暗い廊下に漏れている。絶望の光に見えた。

あとあと、私が退院しても その緑の光は夜道から見えた。道路から私は 「頑張ってね」と思いつつ、愛しくもないようなただ 単に
悲しいような そんな気分で、その緑の光を見ていた。幸希に対しての感情は 可愛いとかいうよりも ただただとても可愛そうだった。
必死で毎日を生きてるというか、生き延びているというか、生かされてるというか… でも、私は私で「死なないでね!」と祈っていた。

毎朝、体重を聞くのが日課になっていた。今日は 増えたかな!? どうかな?! 増えたら元気になってる証明…でも、日々せいぜい
5g位の体重増加程度で、私としては1gでも増えていたらうれしかったが、こんなことは 普通の赤ちゃんでは考えられない事だよね…

赤ちゃんってもっとぐんぐんと大きくなるはずだよね。なぜこんなによくならないの? もっと大きな病院に搬送されていればよかったのに…
人工呼吸器は、5日位でとれた。先生は 熱血で、雰囲気のいい先生で 幸希が生まれてから 当分 泊まりこんで診て下さっていたと聞いた。

少し 小康状態になったが その後 心臓の「動脈菅開存症」「腸閉塞」「未熟児網膜症」…色んな疑いがあると言われいつも肝が縮まった。
そのたび 私は「そうですか」とだけ言って泣いていた。細かい事を聞いたってどうせ 更に絶望するだけだったから、正直、心からあまり
ちゃんと 聞く気もしなかった。「どうしたら治るのか」って聞いたってどうせよくわからない。私が努力したって仕方ない…と気分は後ろ
向きになっていた。原因や治療方針など、先生は根気よく説明をよくして下さったと思う。今ではとても感謝している。届かないありがとう。

2週間経って 私がそろそろ 退院しようかと言う頃、やっと ウイルスの名前がわかったと聞いた。先生もお医者さんになってこのかた18年、
同じウイルスが原因であろう、早産の事例が1つあったというだけというものだった。それも10年前の記憶にうっすらと…ということだった。

      死 に そ う に な る  

12月中、ずっと幸希は悪かった。体重もそんなに増えないし、「無呼吸発作」と言って、呼吸をよく忘れていた。呼吸を忘れるだなんて…??
呼吸をしていないことを知らせるアラームが、ピー! ピー!と鳴ると 看護婦さんが幸希をつつく。すると思い出したように息をする。だけど
だいたい、呼吸を忘れるなんて事自体が おかしいじゃないか・・・・ それって、殆ど 死にかけているのと同じなのじゃないか…わからない…。

退院した後 私は、朝・夕 搾乳を持参して面会していた。もう、生後1ヶ月近くというのに、何か手ごたえがなかった。ずっと毎日、毎日
そんな感じだった。 年末のある日の朝だった。夫も一緒に行ったので本当に年末だったんだろう。面会に行った時の幸希の顔色が、まさに
ろうそくの軸のような、まさしく透き通るような白い色をしていて、「ついに 来るべき時が来た!!!」と 思って腰が抜けてしまった…

とても見るのも恐ろしく、私は泣きながら未熟児室を飛び出して、外の詰め所の前のソファーに座って待っていた夫のところへ飛んでいった。
この当時、未熟児室に入室して面会に入室できるのは、母親だけだった。父親は保育器の横のガラス越しに赤ちゃんを見るだけの面会だった。
「幸希はもう、そのうち絶対に死ぬよ!! わぁ〜わぁ〜!」と泣いた。夫はわけがわからず、途方に暮れていて、部屋から出てきた先生は
なぜか不思議に笑っていて 「今から幸希くんに 輸血するわ。サインしてね。」と言った。何がサインだよ…! 笑ってる場合かよ!……
なんて思ったけど、先生の余裕の態度に、「??」 という感じがあった…。(私の行動がおかしかったのか、意外に軽症だったのか…。)

その日は実家の会社の仕事納めの日で みんなで昼食を食べに行った。そのとき母が幸希の為にずっと「お茶断ち」をしてくれてると知った。 
ありがとう…。今回の輸血はたったの 7cc。それを半日かけて輸血する。いったい、1時間 何cc入れる計算なのか?7ccの根拠って何なのか

その日の夜は、心配で眠れなかったけど、特に緊急の電話もなく、次の日の朝を迎えた。電話がないということは死ななかったのだろう…。
でも、さらに死にかけているかもしれないし…。もぅ 私は怖くて怖くて未熟児室に行けなかった。私は未熟児室の前で待つことに決めて、
夫に行って貰うことにした。 未熟児室には入れない夫が、未熟児室のドアの近くから中を覗いた後に、私の方を見て ニッコリと笑った。

婦長さんが、夫を見て満面の笑みで手招きしてくれていたのだそうだ。よかった…。また また 幸希は頑張ったらしい… 嬉しかった。

この頃 私達には幸希に表情が出てきたように感じていた。先生には「筋肉がゆるんだだけ」なんて現実的なことを言われていたけど…



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