2000年  通 園 児  秋 〜   


      通 園 を 始 め て  半 年 後  


さて 春・夏 とつつがなく楽しみ 秋になった。夏からは あいかわらず、ずりばいをしている。手だけで、自衛隊のように進むのだ。
PTの先生が言うのは 「幸希なりによくなってる」という言葉だった…。そんなん…「それは 良くなっているのか?」どうなのか??

              


↑ 画像サイズ乱れてまして失礼します。幸希のずりばいの様…半年位はこういう移動方法だったような気がする。
はじめは寝そべって 遊んでいたけど だんだんと「状態を起こす事」を覚えてきた。嬉しかったものです〜…。涙



 大 手 前 整 肢 学 園 で の 診 察 

かねてから、PTの先生が 「母子で入院して訓練するような訓練施設もある」と言っていた…。初めて聞いた時は、
まだ お腹に亜希がいたし、「本当に、そんな施設に行かなきゃいけない程 悪いのかしら…!? そのうち、よくなるのでは?」
と思って、考えないようにしていたのだけど、実は…訓練をしてたってさっぱり 進歩がなかった。正座ができるようになったり
ずりばいはしてるけど「立つ」ことも 「歩く」ことなんて程遠いように見える。もう 行くしかないよな…。やけ気味だった。
4週間も家から離れるだなんて…かわいい盛りの亜希もいるのに・・・・だいたいそんな 毎日訓練三昧の生活には 抵抗があった。

行くのは大阪にある、「ボイタ法専門」の訓練をしている名高い病院だった。そこの院長先生は、本家本元のドイツのボイタ先生の
後継者と言われているそうで、超・有名な先生だそうだ。とりあえず現状の診察をしてもらったところ…「母子入院が望ましい」涙



 母 子 入 園 の 始 ま り  



 ↑ パンフレットの画像ですが こんな風に1日4回、訓練を行っています。通園部門=療育園 や養護学校も有り


9月のある日。ほどなくして ついに入園の日となった。朝から、雨がジトジト降っていた。ここは 戦時中の建物か・・・・と思うような
古い建物で…。暗い気分だった…。もう 私は病院はイヤ…。なんだか先生に気を使って、聞きたいことも聞けないのに…いつもいつも。
それに加え いるわ いるわ。足の悪い子が…どころか 大変な障害を持つお子さんがいっぱいだ… 幸希もそうなるということなのか…


 幸 希 の 現 実 を 知 る 

朝から院長先生による体の現状の状態把握の診察があり、午後から今回の、『母子入園・担当』の女の先生とカウンセリングがあった。

中年の女性の先生で「この入園で何を望んでいるのか?」と尋ねられ 「え〜っと・・・少しでも 早く 歩けるように・・・」と言うと…

 ビシリッ!!!と言われたのだけど…「足の代わりは、なんぼでもあるんやで。でも手のかわりはないで!」

どういう意味なのか、さっぱりわからなかった・・・・泣きそうになってしまった…。私だって…少しでもよくなって欲しいから色々なことを
それなりに我慢して決意してこうやって来ているのに… なぜいきなりそんな、わけのわからないことで怒鳴られなきゃいけないのか… 。


 「幸希君のこと、どういう風に言われてるの? どう理解しているの? 説明してごらん」 先生は聞いた。
「病院で『中枢神経協調障害』と言われています。療育園で『神経麻痺がある』と言われています。」

「それはねぇ… みんな 脳性麻痺の事なんやで…。」   …  エッ そうなの…?  

もぅ… 言葉もなく、幸希が生まれてきた時のようにまた「そうですか…。」とだけ言った。全身の力が抜けて目の前が真っ暗だった。

幸希が生まれて、交換輸血をする時、 先生が言っていたよな・・・脳性麻痺にならないようにってことで交換輸血したんじゃないのか…。
私も育児書で 何度となくそのページをめくっていた…でも、そこにある症状と幸希を結びつけようとはしなかったけど…、やっぱり…

相当 落ち込んだ…。なんだよ… 皆 知っていたんとちがうのかい! なんかいつも 質問をはぐらかしていたな!!!なんでだよ。

当時、通っていた療育園は、「園のほうから告知をすることはしない お母さんが子どもと接していて気づくこと」という考えだった。

 夫は 「よし!!やっと スタートラインに立てた、これから 頑張ろうぜ!」と言っていた。なんだと?
めでたい! あんたは ホンマに めでたい人間やね! 究極の超・前向き人間かよ!と アホ扱いしたり、八つ当たりしたりした… 


   

左 :一組の母子に与えられる部屋。なんだか 好きになれないインテリア。  中: ボイタ法2相の訓練。 

右:『 通称カット机 』に座ってみる。肘で、支えができる事で、安定した姿勢を保ち食事も可能になった。



  4 週 間 の 母 子 入 園 の 始 ま り  


落ち込んでいる暇もなく、訓練三昧の生活が始まった… 4週間の入院生活だ。脳性麻痺ならば、少しでも良くしてやらなくては。

 起床→朝食→訓練→休憩→訓練→昼食→訓練→休憩→訓練→風呂→夕食→寝る

訓練を受けることができるのは常に、8組の親子で、その中の 2組ずつが同室で 生活する…療育園の 先輩が2組入園していたから 
色々教えてもらったし 他の母子とも 皆仲良くしていた。週末は 帰宅もできるし、お酒も飲んでいい。よく みんなで語り合った。
ストイックな日々に 酔いしれて、妙に充実感があった。例の女の先生が訓練も精神的にもしごいてくれた。最初の印象は悪かったが、
さっぱりした いい先生で励ましてくれた。  OT= 作業療法の時間もあり、「改造机」を、先生が作ってくれて、念願の安定した
姿勢で食事ができるようになった。カットテーブルを使えば、上手に自分で食事を 食べることができるようになって進歩してきた…。

そんなこんなの泣き笑いの4週間の入院の後、幸希は膝を使ったハイハイを、なんとか おぼつかなくするようになっていて感激だった。
本当に心から嬉しかった。努力は実る! そんな思いがあった。時には錯覚にもなるのだけど…。今となって 冷静に分析するところ、
夏ごろに、四這いの姿勢をしたそうにしていた幸希には 上体を起こすだけの「腕の力」が 既についていた。幸希の体の中で、手や足、
いや『体全体』の動きのバランスが取れてきたのだろう。もちろん訓練の力も大きい。ちょうど よい時期の母子入園だったみたいだ…。





↑訓練後、お尻を引きずるような形ではあるが這い始める。 右:普段の生活でも這う場面が増えてきた


結局 例の女の先生が言いたかった事は  『 這う = 歩行と同じ動き 』 なのだそうで 腕が しっかりと 1・2・1・2
と…右・左・右・左・・・・・と 出せなければ 「足も 右・左・右・左」と出せない… という意味だった。専門的には 足の交互性 と言う

「手が自由に使えて、杖を持つ事ができたら 自分の足で歩くという可能性は大きくなる・・・・その意味でも手だって大切で足ばかりじゃないんだ」
そして、車椅子から自分で 立ち上がったりもできる。そんな意味も含んでいたのだ。以来10年後。今、2010年、幸希は実際その通りに成長した。


だが、「訓練をしたら少しでも健常児に近づき すたすた歩けるようになる」と 思い込んでいた私にはとうてい、理解し難い話だったにちがいない。



 幸 希 2 歳 に な る  

そんな母子での入院・訓練生活が終わり 帰宅したらすぐに2歳になった。2歳の誕生会はみんな… 家族 いとこ じ〜じ や ば〜ば達にとって

「♪幸ちゃん 祝 2歳!! 入院、頑張ってよくなってよかったね! 本当におめでとう!」でもなかった…。

「・・・・もぅ2歳なのに・・・・歩きも お喋りもしない幸ちゃんって…母子入院して帰ってきたら歩けるようになると思ってたのに…」そんな雰囲気…

その後気管支炎で入院。生まれた時に人工呼吸器を着けていたせいで気管支がボロボロだった。子ども達が生まれた病院に亜希をおぶって入院していた。

亜希も一時、健診で『 股関節に問題ありかも??? 』と疑われた時があり、足だけにまた ドキっとしたが・・・・無事にハイハイをするようになった。
幸希の事を思うと 心境は 複雑だった。 はじめは2人を一緒にのんびり育てる予定が、妹に 追い抜かれていく幸希。これからもぬかるのだろうか…。

年末は、いよいよ手術するしかない… と言われていた私の動かない右手の指。最後のチャンスが訪れた。広島にその手の病気に詳しい病院があった…。
有名な先生が居たのだが、手術してもよくなるかどうか? リスクを伴う手術になる…ということであきらめたけど、車で広島の親戚を訪ね楽しかった。

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