春・・・ 通園児になる  



      療 育 園 の「通 園 児」に な る 


4月から、『通園児』になる事を勧められた。「よさそうな事は なんでもやってやらなくちゃ!」とすぐに決めて、その「通園」の
意味もいまいちわからいまま入園式になった。「 療育園に 通園する」…という事は その時はわからなかったけど

「障害を持つ子ども達が母親と一緒に訓練や保育を受け共に学ぶ=療育 障害児の幼稚園のような通園施設」

朝、タクシーがお迎えに来てくれて、近所の生徒さんと乗り合わせ、療育園へ行く。ちゃんと年齢別のクラス分けがなされていて、
それぞれに時間割があり保育、訓練…お昼は子ども達は給食が出る。幸希は、週に3回 9時から1時30分位までというスケジュール。

さて…、初めて通園児として行った日は入園式…だと思っていたのだけど、いわゆる離退任式も兼ねていたようだった。市の関係で、
職員の異動があるようだった。幸希と同じ学年で今回、入園するのは3人。市内からたった3人だけ…?それほど幸希は悪いのか…  
 
いよいよ、入園式が始まった。1歳の入園式って…なんだかピンとこないけど…。そのうち、異動されていく先生のご挨拶が始まり…

「お母さん方、どんなに重い障害があったとしてもどうぞ前向きに…!子ども達の為に頑張ってあげて下さい」


「えぇっっ?障害…??」 確かにすごく重い障害がある子がいる・・・・。寝たきりの子も… 管をいっぱい装着している子も…。

そんな子もいるけど…でも、元気そうに動いたりしてる子もいてる。ただ、みんな足に問題があって 訓練に来ているのだろうなぁ…。

とても動けないような子もいるが だいたいの子はそのうち 訓練して歩けるようになるんだろうな・・・・と…半ば 納得させるように 
思っていたというか思おうとした。また、一滴の墨が落ちて…また染みていった…。 幸希は違う。訓練に来ただけ!そう思っていた。

連休が明け家に戻った…なかなか帰れなかったのは自分達だけで育てるのが怖かったのかもしれない…(母や妹に色々助けてもらいたかった)
でも、通園も順調だったし、もう3ヶ月を過ぎた亜希も、療育園の託児室に預ける事ができるようになったので、親子3人で通園を始めた。

保育や訓練は、毎日とても楽しかった。つい こないだ、出産前まで外来保育に通っていた時の、明るくて優しいベテランの先生2人は
そのままクラスの担任だったし、いつも受付で優しく声をかけてくれる先生も同じ、いつも亜希をかわいがってくれてお世話もしてくれた。



    


↑ ハンモックの揺れ遊び。怖がらず大好きだった。  感触遊び。結構 もくもくと遊ぶ子供だった。あまりに集中して他人を気にせず
遊び続けるので「自閉の傾向」があるかと思ったが、先生には一笑された。でも、4年後に「広汎性発達障害」と診断されたのだった…。 


幸希は当時、あまりきゃぁきゃぁと言ったりせず、人にも関心はなかったが、先生の事が大好きになり毎日、接してもらっているうちに 
わぁ〜わぁ〜 キャー キャー♪と大喜びで 遊んでもらうまでになった。私は、同じクラスの友達とも仲良くなった。お母さん達
と、母の休憩時間に我が子の事を少しずつ話したりして、夏頃には夫に子どもを預けて、夜、飲みに行ったりもして仲良くなっていった。

遠足、水遊び、 感触遊び ・・・・・幸希は水遊びが大好きだった。訓練は、理学療法 言語療法 作業療法 心理発達の時間がある。




亜希がお腹を減らしたら託児の先生が知らせに来てくれて お乳をやりに行けて安心だった。当時はまだ、お乳がとっても張っていたので…
保育室は、誰かしらの通園児下の子が生まれていて、大賑わい! みんな、元気で五体満足の兄弟姉妹児が生まれたら、心から喜んでいた。

毎日前に幸希を抱き、後ろに亜希をおぶって通った。タクシーで通園できるのはありがたかった。(通園バスよりも経費が削減できるらしい)

夏ごろだったから 1歳半だと思う。幸希はズリバイから上体を起こし、膝を使ってバランスを取り、四つ這いの姿勢を取りたそうにしていた。
そのうち上半身を起こして、おばあちゃんの様な正座=割り座をするようになった。発達は遅いながらも、確実に進歩していると信じていた。

   おまけ そ の 頃 の 夫  第 2 弾 

夫はというと… 4月の終わりに11年勤めた会社を辞めた。「辞めていいかな?」と尋ねられて、少し不安だったけど、私が止める理由もなく…
格好よく言うと、夫を信じて任せる事にしたのだった。夫はなぜか妙にさばさばしていた。サラリーマンを辞めるのは「幸希の為」でもあり、
「幸希に教えてもらった」…というところがあるんだそうだ。 後になって考えると、何かしらの予感があったのだろうか…とも思えたりする。

その夏に、自称 『世界最小で最強・最良のグローバル企業』を 起業した。忙しくなるまでは療育園にもよく足を運んで訓練での勉強をして
くれた。ボイタの訓練も2人で力を合わせて、表まで作ってお互いに分担して 精一杯頑張ってこなしていたと思う。よくがんばっていたけど…

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