1999. 秋・ 療 育 園 へ 行 き 始 め る。外来訓練 〜2000年  妹の誕生 etc...


    生 後 10ヶ月。気 に な る 事


確か、9月の健診だったと思う。生後10ヶ月。修正した月例…から数えると7ヶ月位。修正とは 早産の早く生まれた分を差し引いて 予定日や
退院した日から数えての月齢のこと…。母子手帳の「保護者の記録のページ」には、「はいはいをしますか?」「つかまり立ちをしますか?」
…そういう質問がある。そんなことはおろか 寝返りもしていない。…でもね、でもね … 幸希は未熟児だったからね…成長が遅いんだよ
ゆっくりと、そのうちできるようになるんだよね…と思ったりしていてあまり気にもとめてなかった。というより2人目のつわりもあったし…

その健診で、「過緊張の足」と言われた。体を持って立たせようと地面に足をつけると『つま先立ち』になるのだ。足の指も、きゅっ〜っと
丸まっているし…。『リハビリをしないと歩くのが遅くなるかも…』と 尼崎市立の「療育園」なるものを紹介された…。リハビリって…?

「重症の子も たくさんいるので行ってびっくりしないように」と言われた。もうひとつ意味がわからなかったけど。

とにかく…。不安もあったので夫にも一緒に診察に付いて行ってもらった。整形外科の先生は聞き取りをしたり、幸希の足を棒で叩いたり…。

「足に軽い【神経マヒ】があるから 訓練が必要ですね。すぐに外来で通って訓練を受けて下さい。」

【神経マヒ】って何??  治るの? 今後症状が出るまでは わからないってどういう事? 「わからない事だらけの診察」だった…。

なにか 的を得ない質疑で、質問しても奥歯にものがはさまったような言い方で…澄んだ水に黒い墨がポトン…と最初の一滴が落ちた瞬間。



   訓 練 の 始 ま り・・・・そ し て、1 歳  




とにかく 訓練が必要なのは わかった!だから通うよ ! また また 頑張りのスタートだった…。10月から、週に1回 外来訓練として
訓練が始まった。訓練の方法…というのは、【ボイタ法】といってドイツで発祥した訓練だそうだ。裸にして 指圧のような事をしている。
痛くはないらしいんだけど 苦しそうな姿勢もあるし、たいてい泣いて暴れるので困ってしまった。時々は機嫌よく受けている時もあった。
ただ1日に4回もやらないといけない訓練だったので 大変だった…。でも、頑張ってしてあげないと…とは言え、 私も妊娠6ヶ月…。もう
私のお腹が大きくなってきたので、まず夫に覚えてもらって 訓練をしていた。正直、理論はあまりわからなかったけど、やるしかなかった


ボイタ法とは「体が本来、獲得していく動きを刺激によって引き出させる運動療法」だそうで、今はたくさんの情報がネット上にあります。

楽しい『 保育のお誘い』も受けたので、幸希の為になるのならと・・・外来訓練と外来保育、別の日を予約しながら療育園に通っていた。
この頃の 幸希の様子は…「パパパパ・・・ププ ピア・・・」なんて 声を出すようになって、遊んだりして 本当に 愛らしかった…。

そんなこんなで11月はロタウイルスとか突発性疹とか風邪とか便秘とか、通院だらけだったけど 12月に1歳の誕生日を迎えることができた。

脳のMRIの撮影も『異常なし』だった。昨年と違う幸せだった。←でも実際はこの時には 画像には色々写っていたのではないか?と思う…


     妹 が 生 ま れ る   





ノストラダムスの予言は現実にならず『ミレニアム』の年明けで世界は大変な盛り上がりだった。2月になり、妹が平和に生まれた…。同じ病院で。
同じ帝王切開の手術で生まれて本当に元気な子だった。心からよかったと思った。先生方は「次は元気な子を産ませなくては!」と言って下さった…。


詳細はこちらへ… 結構 おかしかった娘の出産…

     つ の る 不 安  
 
この頃、幸希は ものすごく『不自然な寝返り』をするようになってきてホフク前進のような 肘での這い這い・・・・いわいる「ずりばい」をし始めた。

出産後 3月のなかばから私が、外来の訓練に本格的に通ったが、その頃に初めて『脳性麻痺』 という言葉を聞いたような気がする…。でも 
『きちんとした説明があった』というわけではなかったような気がする。PT(理学療法士)の先生が訓練中にぽろっと言ったような気がするのだ…。

『脳性麻痺』という言葉は、出産の3日後、交換輸血をしなくちゃいけない!と聞いた時から、うすうす 恐れていた言葉だった…。 
だから「エエ ッ??」と動転したし、なにか歯切れよく掘り下げて聞けない雰囲気が漂っていた…。尋ねてもあやふやな答えばかりだった…
なんだか納得できない。スカッと心配が払拭できない…水の中の染みがどんどん広がっていく…どんどんと墨が落ちて…いつか消えるのだろうか…


当時、私の肩と腕に激痛があって、皆、「四十肩だぁ〜〜!」とか言って笑っていたが 痛みがひくと「右手の親指と人差し指」が、全く動かなくなって
しまって大変だった…。病院に行ってみたけれど、原因不明…。幸希の訓練、亜希の世話。実家にはいたが、幸希の通園・通院に私の指の通院も加って、
訓練へ行くにも運転ができないので困った…。代わりに誰かが都合をつけて行ってくれるような毎日で、亜希は外に出せないし、みんな困ってしまった。


1歳にはなったものの、赤ちゃんの様な幸希は、食事すら1人でできない。1歳なら上手ではなくても自分の口に食べものを運ぶことはできそうなものなのに。
なぜだかよくわからなかった…。 そして。あぐらのように座らせようとしてみてもコロンと転んでしまう…。 歩くことはもちろん、立つこともできず…
ちゃんと訓練に行ってるのに、どうなってるの…  這い這いもままならないし…  なにがどうなっているのか、わからない…どうしたらいいんだろう…

私の代わりをしてくれている家族、皆が疲れきっていたように見えて、申し訳ないやら 何かを頼むにも 恐る 恐るお願いするようになってしまった。

産後のホルモンバランスに不安定もあったのか早くも疲れが…。亜希は寝ない子だったし夫も訓練はしないといけないし仕事はあるし、八方ふさがり。
でも「ボイタの時間」には、何度となく帰宅してくれて、再度仕事に行ったりしてくれていた。正直、こんな生活に疲れ始めていた。焦り、疲れ、眠さ。
なにやら怪しい流派の『 東洋医学の整体の先生 』が身近に居て、幸希を診てもらったりしていた。泣く幸希に気を入れてもらったり 立たせたり…。

┐( ´ー`)┌  色々 必死だった


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